2008年 01月 10日
第7回目 福川成一氏 |
「言葉をもたないものに言葉を貸し与える」
コミニケーションとは、言葉のキャッチボールをすることである。
しかしながら、コミニケーションの対象が言葉を持っているとは限らない。
福川成一は言う。
「我々が、風景をつくることは、言葉を発しない風景に言葉を貸し与えること。
風景の語りかける言葉を受け取る人間があってこそ、風景は成立する。」と。

サッポロビール北海道工場 ハルニレの丘(photo by Kouji Okumura)

サッポロビール北海道工場 航空写真
この作品がきっかけとなり、ランドスケープアーキテクトとなる。

サッポロファクトリー アトリウム庭園(photo by Sadamu Saito)

カトリック御殿場教会(photo by Kouji Okumura)

新幸橋ビルディング・千代田区立内幸町ホール外構計画(photo by Kouji Okumura)

公立刈田病院リハビリガーデン(photo by Kouji Okumura)

サッポロビール園のリニューアル
Plofile
1947年鎌倉市生まれ
慶応義塾大学理工学部管理工学科卒業
會田雄亮(陶作家)に師事
1976年 岩城造園にて造園の伝統的手法を学ぶ
1977年 福川成一研究室を主宰
1987年(株)アーククルー一級建築士事務所設立
2001年法政大学工学部建築学科非常勤講師
ホームページ http://www.ark-crew.co.jp/
………………………………………………………………………………………………………………………
DATE : 2008年1月10日
レポート W-studio y.y
以下、学生提出レポートです。
風景とのコミュニケーション
05D6091 南谷崇仁
今回、ランドスケープアーキテクトの福川先生の講演では『風景とは何か?』という疑問に対して多用な方面から考えることが出来たと思います。
先生の講演の中で特に印象に残っているのが、『自分の目の中に映る風景に自分はいない。』『自分自身から離れることが風景をつくる第一歩になる。』とおっしゃっていたことです。自分自身から離れることというのが難しくもあり印象的です。主観からはなれて客観的視点から風景をつくるということが大事なことだと思いました。
ランドスケープアーキテクトという仕事は、建築と違ってどんな仕事をしているのか分かりません。何かを造り上げるという点で似ていると思いますが、シェルターを造って内部を考える建築に対して、無限に広がる自然・ランドスケープは大変難しい仕事だと思います。福川先生がおっしゃっていたランドスケープには時間意識があり、四季や天候・影までもデザインしなくては良いランドスケープは生まれないのだと知りました。自然と対峙し向きあいながら考え造り上げるランドスケープは人々に感動を与える。
『空・雲・太陽など多くのものを見方につけた富士山は、富士山自体が美しいのではない。』というように全体を見ることが出来てこそのランドスケープだと思います。他にも、宮崎駿のジブリアニメでは背景の絵が大変細かく表現されていてあまり目立たない風景でも書き込むことで登場人物を引き立たせる。あだち充のタッチに出てくる南ちゃんも、彼女自身が可愛くて魅力的なのではなくて、他の登場人物が南ちゃんを魅力ある女性に引き立たせている。このような事例がすべて風景に言えるのだと思います。
これからはランドスケープと建築を一緒に考えお互いがお互いを引き立たせるような設計を考えていく必要があると思います。建築内部の開口から見える外の風景、窓枠が額縁となり風景を内部に取り込む。建物内部に入りたくなるようなランドスケープ。講演内容の『風景と何か?』という疑問に対して簡単に解答することは出来ませんがこの疑問を常に自問自答して考えていくことが良い風景を作り出していくと思います。
その言葉の意味
05d7018 上野宏岳
ランドスケープは、ここ数年、その言葉自体は急速に普及したものの、僕の中でその言葉の意味にいまだに混乱があり、それを語る人の立場や専門分野によって様々な解釈が施され、雑誌等のメディアによる操作も加わって、明確な定義を得ることが困難になっている。福川さんの講演は、建築とランドスケープと造園の関わりを僕たちにわかりやすく、様々なスライド写真を通して説明してくれたが、結局最後まで僕の中でのランドスケープという言葉自体に対するわだかまりを完全に消化するまでにはいたらなかったことは強調しておきたい。それはもちろん自分が未熟なこともあるが、これはあくまで、講演を終えての僕の感想である。
日本ではランドスケープは庭園手法によって造園の、また都市計画手法からは政治、建築の一分野とされてきて、景観、造園の意味合いとして、ガーデニングなど普及も後押しして急速に広まった言葉である。しかしこの解釈も信用ならないものではないだろうか。ランドスケープという言葉の意味を説明しようとしたとき、造園という言葉を使うことはどうもおかしいように思える。調べてみると、しばし、造園からランドスケープに発展したという風な解釈をされることが多いが、実際には、landscape architectureという言葉を日本に導入する際、造園を訳語として当てられ、この言葉が日本の文化的背景により、本来のランドスケープという言葉が持つ意味と相違があるため、本来の意味で使用する際に、ランドスケープという外来語のまま使われるようになったのが正しいらしい。では本来の意味とは何なのか。それは今回の講演のサブタイトルでもある「言葉を持たないものに言葉を貸し与える」というのが一番ふさわしいように思える。非常に抽象的で、具体的な説明を避けている様な印象もあるが、僕の中ではこれが一番しっくりきた。そんな抽象的な説明を付けることで、今後僕らが具体的な意味を持たせる様な形で建築にしていく価値が生まれる様な気がする。
注意力
05D7039 狩野 輝彦
今回は景観計画の授業の先生でもある福川さんの話だった。話の内容はいつも授業中にお話してくれていることなので先生の授業の復習といった感じだ。(授業中に先生自身から、景観計画の授業と同じことを話すから受けている人は期待しないでね、と言われていた。)富士山の話やトトロの話、タッチのこと、日本画の風景のことなどいつも通り独特の言い回しで話してくれたが、やはり毎週の授業で話していることをこの講演の短い時間だけで表現することは難しいようで、僕は少し物足りなさを感じた。特に先生が授業で毎回のように言っていたこと、学校は注意力を訓練するために来ているという話をよくしてくれていたが、この講演では、一言さらっと言っただけで終わってしまったのが残念だった。先生はよくこの学科の人は他の人のために物を作るのだから注意力を訓練することさえできればそれだけで十分だと言っていた。人のために物を作るのだから、相手が何を要求しているか、それをきちんと読み取るための注意力が必要となってくる。いくらデザインができても注意力がなければ人のために物を作ることはできない。この話は僕にとってとても印象的な話だった。よく高校時代の友達に会うと、もう家とか作れるの?とかどんな勉強しているの?とか聞かれることがあるが毎回うまく答えられないでいた。3年間建築を学んできたがが、家を作ることはできないし、何を勉強しているかと聞かれても、自分の作品をより良い物にしようと毎日考えているだけで、何を勉強しているのかはっきりした答えが出てこない。しかし先生は注意力を訓練しているということを気づかせてくれた。振り返ればその通りである。敷地を見に行ってもこの敷地の特徴は何だろうと注意して見ていたり、この課題の意図は何だろうと注意して課題文を読み返してみたり、建築学科に入って今までやってきたことは注意力を常に使っていたのだ。この話を聞いてからは、注意力を訓練しているということを頭の片隅に置いて生活するようにしている。分かったことは、注意することでそれが認識へと変わるということ、注意していろいろなものを見てみると少ない情報でもいろいろなことが分かったり、今まで意識していなかったものが見えてきたりと世界が広がってきた。このことは僕にとってとても衝撃的なことだった。今回の講演でもこの話をみんなに伝えてほしかった。しかし、今回の講演では時間がなく注意力の話は注意していないと聞き流してしまうくらいの短さだった。逆にそれが先生の意図だったのだろうか。注意して聞いていた人だけが理解できる話。そんな講演会だったのかもしれない。
風景が話す言葉
05D7084 津久浦政慶
僕は景観計画の授業をとっているので福川先生の話を毎週聞いているのだが、先生の話はいつも個人的な体験のエピソードで語られるのでこころに響きやすく、引き込まれてしまうなにかがある。僕は先生が見せる写真の一枚一枚が好きだ。なぜならその全てに美しい風景があるからだ。先生は「風景は人がつくる」と言う。例えば自然の美しい景観は写真家や画家に切り取られて初めて風景となるのだという。そして現代の息が詰まりそうな都市空間に美しい風景をつくるためにランドスケープデザイナーはいるのだ。
先生は今回の講義でランドスケープデザインの3つの手法を示してくれたと思う。1つは冒頭に記した「風景を切り取る」ということだ。次の手法ではそれとは少し別のアプローチがなされる。例えばフランク・ロイド・ライトの落水荘は建築をたてることで自然の景観を劇的に見せている。スライドに落水荘ができる以前の写真があったが、これだけでは特に魅力のある風景ではないことがわかる。三仏寺の投入堂では建築が庭園と化し一つの風景になっている。また厳島神社は鳥居を建てただけで瀬戸内海を庭にしてしまっている。つまり「オブジェク(建築、彫刻etc)を配置することで風景を豊かにする」ということなのだ。人工物が自然の景観を引き立てる役割を担っている。
3つ目の手法は「時間軸を風景に挿入する装置をつくる」というものだ。風景には時間の概念がある。例えば、京都の詩仙堂の木が落とす影は時間の経過を穏やかに知らせている。この場合、庭に陰を落とす大きな木が時間軸を風景に挿入する装置であり、それが風景に時間の概念をあたえている。もともと日本人はこの風景の中の時間を知っていた。葛飾北斎の絵画はそのことを教えてくれる。例えば波の表現や雨の表現が時間の経過を示す装置としてすでに用いられている。
それらの手法は先生がかわったプロジェクトの随所にも見られた。伊東豊雄さんとのプロジェクト「サッポロビール恵みの庭」はまさにそれだ。建築とランドスケープが溶け合って美しい風景をつくっている。丘のうえに一本だけ植えられた木は時間を示し、人が集まる風景もみせてくれる。
先生は「風景は人によって見え方が違う」といっていた。先生が最近で印象に残っている風景は、との質問に“かぐや”が撮影した月の映像を挙げた。それは少年時代にみたアポロの月面着陸が色あせない記憶として残っているためだと言っていた。風景は普遍的なものではけっしてなく、一人一人のこころに響くものでなければいけないのだと感じた。以前、建築史の授業で大陸の文化(中国)では「建築に空間をつくる」が、日本では「空間に建築をつくる」ということを学んだ。つまり日本の伝統的な空間にはランドスケープの概念がすでにありということだ。そういう恵まれた環境にいることを忘れてはいけないと思った。そして現代の過密都市には人々の渇いたこころに響くランドスケープデザインがもっと必要だと感じた。
コミニケーションとは、言葉のキャッチボールをすることである。
しかしながら、コミニケーションの対象が言葉を持っているとは限らない。
福川成一は言う。
「我々が、風景をつくることは、言葉を発しない風景に言葉を貸し与えること。
風景の語りかける言葉を受け取る人間があってこそ、風景は成立する。」と。

サッポロビール北海道工場 ハルニレの丘(photo by Kouji Okumura)

サッポロビール北海道工場 航空写真
この作品がきっかけとなり、ランドスケープアーキテクトとなる。

サッポロファクトリー アトリウム庭園(photo by Sadamu Saito)

カトリック御殿場教会(photo by Kouji Okumura)

新幸橋ビルディング・千代田区立内幸町ホール外構計画(photo by Kouji Okumura)

公立刈田病院リハビリガーデン(photo by Kouji Okumura)

サッポロビール園のリニューアル

1947年鎌倉市生まれ
慶応義塾大学理工学部管理工学科卒業
會田雄亮(陶作家)に師事
1976年 岩城造園にて造園の伝統的手法を学ぶ
1977年 福川成一研究室を主宰
1987年(株)アーククルー一級建築士事務所設立
2001年法政大学工学部建築学科非常勤講師
ホームページ http://www.ark-crew.co.jp/
………………………………………………………………………………………………………………………
DATE : 2008年1月10日
レポート W-studio y.y
以下、学生提出レポートです。
風景とのコミュニケーション
05D6091 南谷崇仁
今回、ランドスケープアーキテクトの福川先生の講演では『風景とは何か?』という疑問に対して多用な方面から考えることが出来たと思います。
先生の講演の中で特に印象に残っているのが、『自分の目の中に映る風景に自分はいない。』『自分自身から離れることが風景をつくる第一歩になる。』とおっしゃっていたことです。自分自身から離れることというのが難しくもあり印象的です。主観からはなれて客観的視点から風景をつくるということが大事なことだと思いました。
ランドスケープアーキテクトという仕事は、建築と違ってどんな仕事をしているのか分かりません。何かを造り上げるという点で似ていると思いますが、シェルターを造って内部を考える建築に対して、無限に広がる自然・ランドスケープは大変難しい仕事だと思います。福川先生がおっしゃっていたランドスケープには時間意識があり、四季や天候・影までもデザインしなくては良いランドスケープは生まれないのだと知りました。自然と対峙し向きあいながら考え造り上げるランドスケープは人々に感動を与える。
『空・雲・太陽など多くのものを見方につけた富士山は、富士山自体が美しいのではない。』というように全体を見ることが出来てこそのランドスケープだと思います。他にも、宮崎駿のジブリアニメでは背景の絵が大変細かく表現されていてあまり目立たない風景でも書き込むことで登場人物を引き立たせる。あだち充のタッチに出てくる南ちゃんも、彼女自身が可愛くて魅力的なのではなくて、他の登場人物が南ちゃんを魅力ある女性に引き立たせている。このような事例がすべて風景に言えるのだと思います。
これからはランドスケープと建築を一緒に考えお互いがお互いを引き立たせるような設計を考えていく必要があると思います。建築内部の開口から見える外の風景、窓枠が額縁となり風景を内部に取り込む。建物内部に入りたくなるようなランドスケープ。講演内容の『風景と何か?』という疑問に対して簡単に解答することは出来ませんがこの疑問を常に自問自答して考えていくことが良い風景を作り出していくと思います。
その言葉の意味
05d7018 上野宏岳
ランドスケープは、ここ数年、その言葉自体は急速に普及したものの、僕の中でその言葉の意味にいまだに混乱があり、それを語る人の立場や専門分野によって様々な解釈が施され、雑誌等のメディアによる操作も加わって、明確な定義を得ることが困難になっている。福川さんの講演は、建築とランドスケープと造園の関わりを僕たちにわかりやすく、様々なスライド写真を通して説明してくれたが、結局最後まで僕の中でのランドスケープという言葉自体に対するわだかまりを完全に消化するまでにはいたらなかったことは強調しておきたい。それはもちろん自分が未熟なこともあるが、これはあくまで、講演を終えての僕の感想である。
日本ではランドスケープは庭園手法によって造園の、また都市計画手法からは政治、建築の一分野とされてきて、景観、造園の意味合いとして、ガーデニングなど普及も後押しして急速に広まった言葉である。しかしこの解釈も信用ならないものではないだろうか。ランドスケープという言葉の意味を説明しようとしたとき、造園という言葉を使うことはどうもおかしいように思える。調べてみると、しばし、造園からランドスケープに発展したという風な解釈をされることが多いが、実際には、landscape architectureという言葉を日本に導入する際、造園を訳語として当てられ、この言葉が日本の文化的背景により、本来のランドスケープという言葉が持つ意味と相違があるため、本来の意味で使用する際に、ランドスケープという外来語のまま使われるようになったのが正しいらしい。では本来の意味とは何なのか。それは今回の講演のサブタイトルでもある「言葉を持たないものに言葉を貸し与える」というのが一番ふさわしいように思える。非常に抽象的で、具体的な説明を避けている様な印象もあるが、僕の中ではこれが一番しっくりきた。そんな抽象的な説明を付けることで、今後僕らが具体的な意味を持たせる様な形で建築にしていく価値が生まれる様な気がする。
注意力
05D7039 狩野 輝彦
今回は景観計画の授業の先生でもある福川さんの話だった。話の内容はいつも授業中にお話してくれていることなので先生の授業の復習といった感じだ。(授業中に先生自身から、景観計画の授業と同じことを話すから受けている人は期待しないでね、と言われていた。)富士山の話やトトロの話、タッチのこと、日本画の風景のことなどいつも通り独特の言い回しで話してくれたが、やはり毎週の授業で話していることをこの講演の短い時間だけで表現することは難しいようで、僕は少し物足りなさを感じた。特に先生が授業で毎回のように言っていたこと、学校は注意力を訓練するために来ているという話をよくしてくれていたが、この講演では、一言さらっと言っただけで終わってしまったのが残念だった。先生はよくこの学科の人は他の人のために物を作るのだから注意力を訓練することさえできればそれだけで十分だと言っていた。人のために物を作るのだから、相手が何を要求しているか、それをきちんと読み取るための注意力が必要となってくる。いくらデザインができても注意力がなければ人のために物を作ることはできない。この話は僕にとってとても印象的な話だった。よく高校時代の友達に会うと、もう家とか作れるの?とかどんな勉強しているの?とか聞かれることがあるが毎回うまく答えられないでいた。3年間建築を学んできたがが、家を作ることはできないし、何を勉強しているかと聞かれても、自分の作品をより良い物にしようと毎日考えているだけで、何を勉強しているのかはっきりした答えが出てこない。しかし先生は注意力を訓練しているということを気づかせてくれた。振り返ればその通りである。敷地を見に行ってもこの敷地の特徴は何だろうと注意して見ていたり、この課題の意図は何だろうと注意して課題文を読み返してみたり、建築学科に入って今までやってきたことは注意力を常に使っていたのだ。この話を聞いてからは、注意力を訓練しているということを頭の片隅に置いて生活するようにしている。分かったことは、注意することでそれが認識へと変わるということ、注意していろいろなものを見てみると少ない情報でもいろいろなことが分かったり、今まで意識していなかったものが見えてきたりと世界が広がってきた。このことは僕にとってとても衝撃的なことだった。今回の講演でもこの話をみんなに伝えてほしかった。しかし、今回の講演では時間がなく注意力の話は注意していないと聞き流してしまうくらいの短さだった。逆にそれが先生の意図だったのだろうか。注意して聞いていた人だけが理解できる話。そんな講演会だったのかもしれない。
風景が話す言葉
05D7084 津久浦政慶
僕は景観計画の授業をとっているので福川先生の話を毎週聞いているのだが、先生の話はいつも個人的な体験のエピソードで語られるのでこころに響きやすく、引き込まれてしまうなにかがある。僕は先生が見せる写真の一枚一枚が好きだ。なぜならその全てに美しい風景があるからだ。先生は「風景は人がつくる」と言う。例えば自然の美しい景観は写真家や画家に切り取られて初めて風景となるのだという。そして現代の息が詰まりそうな都市空間に美しい風景をつくるためにランドスケープデザイナーはいるのだ。
先生は今回の講義でランドスケープデザインの3つの手法を示してくれたと思う。1つは冒頭に記した「風景を切り取る」ということだ。次の手法ではそれとは少し別のアプローチがなされる。例えばフランク・ロイド・ライトの落水荘は建築をたてることで自然の景観を劇的に見せている。スライドに落水荘ができる以前の写真があったが、これだけでは特に魅力のある風景ではないことがわかる。三仏寺の投入堂では建築が庭園と化し一つの風景になっている。また厳島神社は鳥居を建てただけで瀬戸内海を庭にしてしまっている。つまり「オブジェク(建築、彫刻etc)を配置することで風景を豊かにする」ということなのだ。人工物が自然の景観を引き立てる役割を担っている。
3つ目の手法は「時間軸を風景に挿入する装置をつくる」というものだ。風景には時間の概念がある。例えば、京都の詩仙堂の木が落とす影は時間の経過を穏やかに知らせている。この場合、庭に陰を落とす大きな木が時間軸を風景に挿入する装置であり、それが風景に時間の概念をあたえている。もともと日本人はこの風景の中の時間を知っていた。葛飾北斎の絵画はそのことを教えてくれる。例えば波の表現や雨の表現が時間の経過を示す装置としてすでに用いられている。
それらの手法は先生がかわったプロジェクトの随所にも見られた。伊東豊雄さんとのプロジェクト「サッポロビール恵みの庭」はまさにそれだ。建築とランドスケープが溶け合って美しい風景をつくっている。丘のうえに一本だけ植えられた木は時間を示し、人が集まる風景もみせてくれる。
先生は「風景は人によって見え方が違う」といっていた。先生が最近で印象に残っている風景は、との質問に“かぐや”が撮影した月の映像を挙げた。それは少年時代にみたアポロの月面着陸が色あせない記憶として残っているためだと言っていた。風景は普遍的なものではけっしてなく、一人一人のこころに響くものでなければいけないのだと感じた。以前、建築史の授業で大陸の文化(中国)では「建築に空間をつくる」が、日本では「空間に建築をつくる」ということを学んだ。つまり日本の伝統的な空間にはランドスケープの概念がすでにありということだ。そういう恵まれた環境にいることを忘れてはいけないと思った。そして現代の過密都市には人々の渇いたこころに響くランドスケープデザインがもっと必要だと感じた。
by a-forum-hosei
| 2008-01-10 14:08
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