2008年 01月 05日
第6回目 小川広次氏 |
「建築家として考えること」—私の視界—
建築のデザインについて考えるとき、いったいどうやって何もないところから形を生み出せるのだろうか?と思う。とても一般的な疑問であろう。
ただ、ここに落とし穴がある。
何故、何も無いと言えるのか。
ただ、認識できないだけなのに•••••。
コミュニケーション。
よく耳にする言葉である。最近では携帯電話やインターネットなど、数年前には考えられないような方法でコミュニケーションをするためのツールが増えた。それではこれらのツールによって、より深くお互いが理解できるようになったのだろうか?確かにより安易に、あるいは簡易に情報を得ることはできるようになった。
ただ、これって意外に一方通行の情報なのではないのか?あたかも相互にコミュニケーションが図れるようなイメージはあるが、相手の気持ちを考えずに情報を発信しているだけではないのか?
コミュニケーション。
それは双方向の関係であり、お互いの情報の発信内容に合わせて常に変化し続けるような。
そんな「ライブ」な状態なのではないのか•••••。
空間や形を認識することから創造は始まる
「空間や形」とはマッスやヴォイドの関係(物と隙間の関係)であり、「認識する」とは見えるもの/見えないものである。
この写真は小川さんが好きな車であるが、今まで興味をもってないときは見えていなかったものが、一度興味を持つ(認識する)と町のいたるところに走っているのが見えてくるのである。
MoMa:外観写真
田中邸:外観写真
MoMAと田中邸の平面図の比較
70,000㎡と7坪
同時に頭の中にあるということ
物事を目に見えていることと俯瞰的(バーズアイビュー)に考える
阿佐谷南の家:外観写真
阿佐谷南の家を中心にデザインの話を展開されていきました。
阿佐谷南の家の施主からの言葉
イメージを具体化することで創造が形になり始める。まずイメージを具体化するには言葉に置き換える。デザインをするということは創造の実現である。アイディア(言葉/形/状況)から適切な形を探し、バランスの良い物と物の関係(プロポーション)に整える。
プロポーションを構成する要素
→建築を規定するもの
「素材」→素粒子と磁場 [物質の存在を司る]
「光」→光と陰のバランス [立体の存在を司る]
「時間」→適切な生命力 [存在感のあり方を司る]
「トポロジー」→長さ、大きさなどの量的関係を無視した図形相互のつながり方[ものの存在の是非を司る]
阿佐谷南の家:コンセプトモデル/形
阿佐谷南の家:ダイアグラム
阿佐谷南の家:内観写真1
阿佐谷南の家:内観写真2
作品名阿佐谷南の家
<作品概要>
プロジェクトの特徴都市の住居、高齢者の住居として生活が出来る成熟した建築を求めた。
所在地:東京都杉並区
用途:専用住宅
構造:鉄筋コンクリート造 壁床ラーメン構造
規模:地上3階+ロフト、延床面積199.94m2
竣工年月日:2004年11月
賞・入選:2006年 第22回吉岡賞、グッドデザイン賞、第18回JIA新人賞
Profile
1960 東京に生まれる
1982年 日本大学理工学部建築学科卒業
1983〜92年(株)谷口建築設計研究所
1991年(株)小川広次建築設計事務所 代表取締役
2006年 日本大学理工学部建築学科 非常勤講師
2007年 法政大学工学部建築学科 非常勤講師
ホームページURL:http://www.koaa.co.jp
Awards and Prizes
2004年 東京建築賞都知事賞
2008年 第18回JIA新人賞
………………………………………………………………………………………………………………………
DATE : 2008年1月5日
レポート W-studio K•S
以下、学生提出レポートです。
建築における言葉の存在
05d7117 町田芽久実
小川先生は今回「阿佐ヶ谷南の家」を例に、具体的かつ細かく自分の建築設計に対する姿勢を語ってくださった。
小川先生の設計プロセスで特異な点は全てのイメージをまず言葉に置き換えることである。自分の中でイメージとはほとんどがグラフィック的なものに近いと思っていたのでこのことには驚かされた。
言葉というものはどんなもの、ことであっても同じ次元で取り扱うことができる。本、美しい、動く―実在するもの、状態を表すもの、動作を表すものとそれぞれ全く別のものであっても言葉は同列に並べることができるのだ。言葉は強引で曖昧だ。しかしこの“強引さ”と“曖昧さ”によって、イメージを言葉に置き換えることの有用性が発揮されているのではないだろうか。
例えば美しいという言葉。人によって美的感覚はそれぞれ異なるし、それゆえに個人が持つ美しさに対するイメージは様々である。しかし、それらのイメージを絵で表現すれば限りないが、言葉で表現すれば“美しい”という一語で形付けられる。言葉というのは直接形を表現することはできないが、イメージを膨らます余白を含みながら、そのイメージに言葉という形を当てはめることができる。言葉は絵のように押し付けがましくなく、自分で想像する領域を残しておいてくれる。イメージを一回言葉に置き換えてまたアイデアとして抽出するまでに、言葉の持つ余白部分で化学反応が起こり、閃きでしかなかったものが変性し淘汰されていく。
そうしてでてきたアイデアに適する形、プロポーションを与えると小川先生はおっしゃっていた。プロポーションを構成する要素は「素材」「光」「時間」「トポロジー」 である。
阿佐ヶ谷南の住宅では、エントランス部分に風呂などの水周りがすぐ横に配置される(エントランスが南に面しているが水回りに光を大きく取り入れたいという施主の要望から)という一般的にはあまり見ないプランになっていたり、部屋の中央のエレベーターシャフトを非価値の箱に見立てるなど、この要素が随所に現れている。
また、この住宅では、施主が建築ジャーナリストであることから普通の施主からは出ないような「見えない空間が意識された空間」「美しい空間」などの難しい要望が出ていたが、見事に叶えられていると思った。
3階にあるリビングルームの真上にはゲストルームが浮いていて「見えない空間を意識した空間」という施主の要望を実現している。客間を意識していても快適に過ごせるのは2階の奥にプライバシーが確立された空間があるからである。そうしてできあがった空間は施主の望んだ「美しい空間」であった。
この講演で一番印象深かったのは「見えるもの」と「見えないもの」の話である。一般的に言うと、見えるものは定量的であり見えないものは非定量的である。しかし、小川先生は「見る」というのは目で単に見ることではなく「認識する」「意識すること」であり、空間や形を 「認識する」ことから創造は始まるのだとおっしゃっていた。定量的なものと非定量的なものを同等に扱うことができるのはおそらく言葉だけであろう。設計プロセスでイメージを言葉に置き換えることの重要性、また建築を作るときの言葉の存在は、思っていた以上に重要な位置を占めることを教わることができた講演であった。
より良い環境へ
05D7009 飯塚宏侑
今回は小川講師に「建築家として考えること」という題目のもと、講師自身の考えを述べていただいた。
まず私の心に残ったのは小川講師が前置きとして述べていた
建築のデザインを考えるとき
いったいどうやって
何もないところから形に生み出せるのだろうかと思う。
ただ、ここに落とし穴がある
なぜ、何もないといえるのか
ただ、認識できていないだけなのに・・・。
との内容である。何もない、そう思い込んでいるだけの自分がいて、ことを過大評価してしまう。本当は私たちの周りに、いたるところにヒントがころがっているのではないか。そのヒントに気付く努力さえしないでただ遠い目でそれらを見ているのではないか。このことはなにも建築だけに言えることなのではなく、全てのことにいえるのではないかと私は思う。もっと周りの出来事に、状況に敏感になり詳しく知っていこうという意思がなければ何も見えてはこないと思う。そういう努力をせずに生きてきた自分にとっては小川講師が前置きとして軽く述べていたこのことに深く考えさせられた。そして小川講師はこのことを十分に理解したうえで、実行したうえで自分の受け持つ建築について考えている。空間や形、素材、光、時間、トポロジーなどそれらのもつ特徴、価値を奥深くまで考えをめぐらせている。素材を「素粒子と磁場「物質の存在をつかさどる」」、光を「光と影のバランス「立体の存在を司る」」、時間を「適切な生命力「存在感のあり方を司る」」
トポロジーを「ものの存在の是非を司る」と捉えたのも根源がしっかりしていたから故にいえることなのであろう。視点をかえ、スケールをかえ、時間をかえ、空間をかえ、物事を俯瞰的にバーズアイビューで考える。そうすれば今まで見えてこなかったものが見えてくる。小川講師がそのように考え、そして担当したMOMAニューヨーク近代美術館も阿佐谷南の家もいわば、小川講師の考えのたくさんつまった完成形であると私は思う。
今回の講義は私にとって非常にためになった。技術も必要だが、そのまえに物事をよく知ること俯瞰的に見ることの大切さを知った。それを実行することで小川講師がイメージを言葉に置き換えることによって具体化することで創造が形になりはじめるというような独自の考えも、違った形で自分ももてるかもしれない。新しい未来が広がったように思う。そんな貴重な講演をしていただいた小川講師に感謝したい。
『意識/無意識』
05d7054 小林 潤
人間は生活の中でどのくらいの時間を意識的に考え、行動しているのだろうか。私自身、様々なことに関して、意識して生活しているつもりだが、実は無意識のうちに行動していることがほとんどのような気がする。今回の講演の中で小川広次さんは“認識”という言葉を使って、人間の無意識的行動をどのように建築的な手法で導き、設計につなげるかということについて、実例も踏まえながら講義してくださった。
まず、人間の無意識的行動とはどのようなことなのであろうか。例えば、自転車に乗って家に帰る。この行動においても“他のことを考えていて、いつの間にか家に着いている”といったことがないだろうか。このように、人間は無意識状態で生活しながら、世の中を見ているにすぎないのである。講義の中で『赤いハイヒールを気にした瞬間から街を歩いていると赤いハイヒールをよく見かけるようになる』という例があった。これは、普段は、その事柄について無意識状態だったのに、ふと意識的になると“認識”が変化するというものである。
建築もただの箱空間では、人の認識に変化を与えることはできない。人間がもっている五感。また、三次元ないし四次元的な物事の捉え方に、いかに建築として対話するかが重要だと思う。現在、日本の経済的発展と核家族化によって様々な五感を通した経験は少なくなり、年齢層間の交流のなさによって、自らの時間軸でしか考えられない人(他年代の人とのcommunication不足によって、偏った考えしかもっていない人)が多くなってきている。これは、とても大きな問題であり、日本特有の問題なのかもしれない。
先日、ミャンマーで日本人記者が国軍兵士に射殺されるという事件があった。あれも、人々の社会に対する意見をデモという形で表現していた最中の事件である。かつて、日本でも1960年以降、様々な学生運動や大学闘争などがあった。私は、デモや学生運動のない今の日本がいけないと言っているのではない。経済的に安定し、平和な日本のなかで意識して生活する機会が減り、社会に対しても無意識・無関心になってきている私たちに危機を感じるのである。
今までは、経済的効率を重視するための建築がほとんどであった。しかし、これからの建築は人に対して建築がapproachし、人々の意識状態に変化を与え、心と対話するものでなければいけないと思う。認識が変化すれば、その人の世界も広がる。そして、広がった世界での認識は新しい次元で物事が考えられ、creativeな生活がおくれるのだと思う。このように建築家は、その意図を十分に考えた設計をしていかなければいけない。
建築のデザインについて考えるとき、いったいどうやって何もないところから形を生み出せるのだろうか?と思う。とても一般的な疑問であろう。
ただ、ここに落とし穴がある。
何故、何も無いと言えるのか。
ただ、認識できないだけなのに•••••。
コミュニケーション。
よく耳にする言葉である。最近では携帯電話やインターネットなど、数年前には考えられないような方法でコミュニケーションをするためのツールが増えた。それではこれらのツールによって、より深くお互いが理解できるようになったのだろうか?確かにより安易に、あるいは簡易に情報を得ることはできるようになった。
ただ、これって意外に一方通行の情報なのではないのか?あたかも相互にコミュニケーションが図れるようなイメージはあるが、相手の気持ちを考えずに情報を発信しているだけではないのか?
コミュニケーション。
それは双方向の関係であり、お互いの情報の発信内容に合わせて常に変化し続けるような。
そんな「ライブ」な状態なのではないのか•••••。
空間や形を認識することから創造は始まる
「空間や形」とはマッスやヴォイドの関係(物と隙間の関係)であり、「認識する」とは見えるもの/見えないものである。
この写真は小川さんが好きな車であるが、今まで興味をもってないときは見えていなかったものが、一度興味を持つ(認識する)と町のいたるところに走っているのが見えてくるのである。
MoMa:外観写真
田中邸:外観写真
MoMAと田中邸の平面図の比較
70,000㎡と7坪
同時に頭の中にあるということ
物事を目に見えていることと俯瞰的(バーズアイビュー)に考える
阿佐谷南の家:外観写真
阿佐谷南の家を中心にデザインの話を展開されていきました。
阿佐谷南の家の施主からの言葉
イメージを具体化することで創造が形になり始める。まずイメージを具体化するには言葉に置き換える。デザインをするということは創造の実現である。アイディア(言葉/形/状況)から適切な形を探し、バランスの良い物と物の関係(プロポーション)に整える。
プロポーションを構成する要素
→建築を規定するもの
「素材」→素粒子と磁場 [物質の存在を司る]
「光」→光と陰のバランス [立体の存在を司る]
「時間」→適切な生命力 [存在感のあり方を司る]
「トポロジー」→長さ、大きさなどの量的関係を無視した図形相互のつながり方[ものの存在の是非を司る]
阿佐谷南の家:コンセプトモデル/形
阿佐谷南の家:ダイアグラム
阿佐谷南の家:内観写真1
阿佐谷南の家:内観写真2
作品名阿佐谷南の家
<作品概要>
プロジェクトの特徴都市の住居、高齢者の住居として生活が出来る成熟した建築を求めた。
所在地:東京都杉並区
用途:専用住宅
構造:鉄筋コンクリート造 壁床ラーメン構造
規模:地上3階+ロフト、延床面積199.94m2
竣工年月日:2004年11月
賞・入選:2006年 第22回吉岡賞、グッドデザイン賞、第18回JIA新人賞
Profile
1960 東京に生まれる
1982年 日本大学理工学部建築学科卒業
1983〜92年(株)谷口建築設計研究所
1991年(株)小川広次建築設計事務所 代表取締役
2006年 日本大学理工学部建築学科 非常勤講師
2007年 法政大学工学部建築学科 非常勤講師
ホームページURL:http://www.koaa.co.jp
Awards and Prizes
2004年 東京建築賞都知事賞
2008年 第18回JIA新人賞
………………………………………………………………………………………………………………………
DATE : 2008年1月5日
レポート W-studio K•S
以下、学生提出レポートです。
建築における言葉の存在
05d7117 町田芽久実
小川先生は今回「阿佐ヶ谷南の家」を例に、具体的かつ細かく自分の建築設計に対する姿勢を語ってくださった。
小川先生の設計プロセスで特異な点は全てのイメージをまず言葉に置き換えることである。自分の中でイメージとはほとんどがグラフィック的なものに近いと思っていたのでこのことには驚かされた。
言葉というものはどんなもの、ことであっても同じ次元で取り扱うことができる。本、美しい、動く―実在するもの、状態を表すもの、動作を表すものとそれぞれ全く別のものであっても言葉は同列に並べることができるのだ。言葉は強引で曖昧だ。しかしこの“強引さ”と“曖昧さ”によって、イメージを言葉に置き換えることの有用性が発揮されているのではないだろうか。
例えば美しいという言葉。人によって美的感覚はそれぞれ異なるし、それゆえに個人が持つ美しさに対するイメージは様々である。しかし、それらのイメージを絵で表現すれば限りないが、言葉で表現すれば“美しい”という一語で形付けられる。言葉というのは直接形を表現することはできないが、イメージを膨らます余白を含みながら、そのイメージに言葉という形を当てはめることができる。言葉は絵のように押し付けがましくなく、自分で想像する領域を残しておいてくれる。イメージを一回言葉に置き換えてまたアイデアとして抽出するまでに、言葉の持つ余白部分で化学反応が起こり、閃きでしかなかったものが変性し淘汰されていく。
そうしてでてきたアイデアに適する形、プロポーションを与えると小川先生はおっしゃっていた。プロポーションを構成する要素は「素材」「光」「時間」「トポロジー」 である。
阿佐ヶ谷南の住宅では、エントランス部分に風呂などの水周りがすぐ横に配置される(エントランスが南に面しているが水回りに光を大きく取り入れたいという施主の要望から)という一般的にはあまり見ないプランになっていたり、部屋の中央のエレベーターシャフトを非価値の箱に見立てるなど、この要素が随所に現れている。
また、この住宅では、施主が建築ジャーナリストであることから普通の施主からは出ないような「見えない空間が意識された空間」「美しい空間」などの難しい要望が出ていたが、見事に叶えられていると思った。
3階にあるリビングルームの真上にはゲストルームが浮いていて「見えない空間を意識した空間」という施主の要望を実現している。客間を意識していても快適に過ごせるのは2階の奥にプライバシーが確立された空間があるからである。そうしてできあがった空間は施主の望んだ「美しい空間」であった。
この講演で一番印象深かったのは「見えるもの」と「見えないもの」の話である。一般的に言うと、見えるものは定量的であり見えないものは非定量的である。しかし、小川先生は「見る」というのは目で単に見ることではなく「認識する」「意識すること」であり、空間や形を 「認識する」ことから創造は始まるのだとおっしゃっていた。定量的なものと非定量的なものを同等に扱うことができるのはおそらく言葉だけであろう。設計プロセスでイメージを言葉に置き換えることの重要性、また建築を作るときの言葉の存在は、思っていた以上に重要な位置を占めることを教わることができた講演であった。
より良い環境へ
05D7009 飯塚宏侑
今回は小川講師に「建築家として考えること」という題目のもと、講師自身の考えを述べていただいた。
まず私の心に残ったのは小川講師が前置きとして述べていた
建築のデザインを考えるとき
いったいどうやって
何もないところから形に生み出せるのだろうかと思う。
ただ、ここに落とし穴がある
なぜ、何もないといえるのか
ただ、認識できていないだけなのに・・・。
との内容である。何もない、そう思い込んでいるだけの自分がいて、ことを過大評価してしまう。本当は私たちの周りに、いたるところにヒントがころがっているのではないか。そのヒントに気付く努力さえしないでただ遠い目でそれらを見ているのではないか。このことはなにも建築だけに言えることなのではなく、全てのことにいえるのではないかと私は思う。もっと周りの出来事に、状況に敏感になり詳しく知っていこうという意思がなければ何も見えてはこないと思う。そういう努力をせずに生きてきた自分にとっては小川講師が前置きとして軽く述べていたこのことに深く考えさせられた。そして小川講師はこのことを十分に理解したうえで、実行したうえで自分の受け持つ建築について考えている。空間や形、素材、光、時間、トポロジーなどそれらのもつ特徴、価値を奥深くまで考えをめぐらせている。素材を「素粒子と磁場「物質の存在をつかさどる」」、光を「光と影のバランス「立体の存在を司る」」、時間を「適切な生命力「存在感のあり方を司る」」
トポロジーを「ものの存在の是非を司る」と捉えたのも根源がしっかりしていたから故にいえることなのであろう。視点をかえ、スケールをかえ、時間をかえ、空間をかえ、物事を俯瞰的にバーズアイビューで考える。そうすれば今まで見えてこなかったものが見えてくる。小川講師がそのように考え、そして担当したMOMAニューヨーク近代美術館も阿佐谷南の家もいわば、小川講師の考えのたくさんつまった完成形であると私は思う。
今回の講義は私にとって非常にためになった。技術も必要だが、そのまえに物事をよく知ること俯瞰的に見ることの大切さを知った。それを実行することで小川講師がイメージを言葉に置き換えることによって具体化することで創造が形になりはじめるというような独自の考えも、違った形で自分ももてるかもしれない。新しい未来が広がったように思う。そんな貴重な講演をしていただいた小川講師に感謝したい。
『意識/無意識』
05d7054 小林 潤
人間は生活の中でどのくらいの時間を意識的に考え、行動しているのだろうか。私自身、様々なことに関して、意識して生活しているつもりだが、実は無意識のうちに行動していることがほとんどのような気がする。今回の講演の中で小川広次さんは“認識”という言葉を使って、人間の無意識的行動をどのように建築的な手法で導き、設計につなげるかということについて、実例も踏まえながら講義してくださった。
まず、人間の無意識的行動とはどのようなことなのであろうか。例えば、自転車に乗って家に帰る。この行動においても“他のことを考えていて、いつの間にか家に着いている”といったことがないだろうか。このように、人間は無意識状態で生活しながら、世の中を見ているにすぎないのである。講義の中で『赤いハイヒールを気にした瞬間から街を歩いていると赤いハイヒールをよく見かけるようになる』という例があった。これは、普段は、その事柄について無意識状態だったのに、ふと意識的になると“認識”が変化するというものである。
建築もただの箱空間では、人の認識に変化を与えることはできない。人間がもっている五感。また、三次元ないし四次元的な物事の捉え方に、いかに建築として対話するかが重要だと思う。現在、日本の経済的発展と核家族化によって様々な五感を通した経験は少なくなり、年齢層間の交流のなさによって、自らの時間軸でしか考えられない人(他年代の人とのcommunication不足によって、偏った考えしかもっていない人)が多くなってきている。これは、とても大きな問題であり、日本特有の問題なのかもしれない。
先日、ミャンマーで日本人記者が国軍兵士に射殺されるという事件があった。あれも、人々の社会に対する意見をデモという形で表現していた最中の事件である。かつて、日本でも1960年以降、様々な学生運動や大学闘争などがあった。私は、デモや学生運動のない今の日本がいけないと言っているのではない。経済的に安定し、平和な日本のなかで意識して生活する機会が減り、社会に対しても無意識・無関心になってきている私たちに危機を感じるのである。
今までは、経済的効率を重視するための建築がほとんどであった。しかし、これからの建築は人に対して建築がapproachし、人々の意識状態に変化を与え、心と対話するものでなければいけないと思う。認識が変化すれば、その人の世界も広がる。そして、広がった世界での認識は新しい次元で物事が考えられ、creativeな生活がおくれるのだと思う。このように建築家は、その意図を十分に考えた設計をしていかなければいけない。
by a-forum-hosei
| 2008-01-05 02:02
| 2007