2007年 10月 29日
「戸建て住宅地の環境設計について」 |

第2回の法政大学建築学科・建築フォーラムは二瓶正史先生に講演していただきました。
講演は都市を歴史的に見てどう構成されているか、戸建住宅が集まってどのように環境をつくっていくのかということを世界中の都市や戸建住宅街の写真と供に説明していただきました。
■ 環境共生型住宅地

写真の住宅地のように各住宅の私有地に木を植えることで、その私有地の木が集まり都市環境をつくる。又、植栽帯を外につくって街環境をつくる。1軒でつくるのは限界があるが、このように私有地の緑がたくさん集まることによって環境をつくることができる。
■ コモンスペースを中心に住宅街をつくる

住宅街の中心にコモンスペースをつくって関係を良好にする。又、クルドサックをつくることで居住者や関連車両以外の通過交通を抑制する。

講演の最後の方では宮脇壇建築研究所で手がけてきた戸建団地計画の計画を見せてくださいました。
都市をつくる上で最も重要な住宅の外の計画(緑や道の計画)の話していただき、学生にとって貴重な体験になったのではないかと思います
レポート W-studio 蟻川佑太
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二瓶正史(にへいまさぶみ)
1982年 有限会社宮脇檀建築研究室入社
1997年 有限会社アーバンセクション設立代表取締役
2000年 法政大学兼任講師(現職)
2001年 東京都立大学非常勤講師(〜2006)
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以下学生のレポートです。
「2050年 日本の都市空間」
05d7054 小林 潤
現在、日本の都市景観はかなりの問題を抱えている。そのことについて、多くの建築家は気づいており、様々な手段で解決策を打ち出している。しかし、日本の都市空間が美しくなったという話をあまり聞かないのは、なぜだろうか。(京都や奈良などは美しいと聞くし、自身も美しいと思う)
確かに、ヨーロッパの都市景観は美しい。実際にフィレンツェやローマなどに行ったことがあるが、表面上だけの美しさではなく、その空間自体が美しいと感じた。それは、都市に統一性があるからだろうか。また、統一性を生むために過去の建築のようにその地域特有の材料を使えば良いのだろうか。 確かに、統一性は都市を美しく見せる一つの要素であることは間違いない。しかし、ヨーロッパは日本に比べ地震の少ない地域である。そのようなことからも、過去の建築物が数多く残っている。また、現代において、その地域特有の材料を使い統一性のある都市を生むことは、時代を逆戻りさせることである。
私は、欧米諸国の都市の美しさを作り上げているものは、その都市に住む人々の“心”であると思う。日本人と違い欧米人の中には古いものを使うことにstatusを感じる人が多い。しかし、現在の日本人にはそのような考えを持つ人があまりいないように感じる。この考えの違いこそが、日本の景観を醜くさせている原因なのではないか。現在の社会においてリサイクルという言葉は浸透したものの、古くなったものは新しいものに交換するという考えは未だ改善されていない。急激な高度経済成長は日本人の思考を変えてしまったのである。この考えは消耗品に関わらず、住宅においても同じようなことが起きている。古くなった住宅は新しい住宅に交換する。しかし、交換する条件に地域性や景観は皆無である。何より、表面上の美しさ、価格、必要最低限の快適さ。このような住宅条件を満たすのに丁度良いのが建て売り住宅なのである。
自分は、建て売り住宅を批判しているのではない。地域性や景観を無視し、表面の美しさに気を取られ、決まった型に収まろうとしている日本人の考えに危機を感じるのである。このままでは、いつになっても日本の住環境の貧困さ、都市の醜さはなくならないと思う。また、建築家が建築をつくっていくなかで人々の中にそのidentityを植え付けることができるようになるまでにあと何十年、何百年かかるのだろうか…
住宅は私たちの人生のなかでかなりの時間を過ごす場になる。人によっては、そこで育ち、そこで死ぬ。その住宅が自分、そして地域に合わないものであることは明らかにおかしいことである。自分に合わない靴で一生暮らすことなど考えただけでも辛い。
建築家は本来、建築設計という作業で環境設計をする以前に、その考えをいかにして人々に伝え、まずは、人の”心”を変える設計をするべきなのかもしれない。
「研究することからの建築」
05d7029 大野 麻衣
中世時代の街の研究、分析すること、そしてその結果。良い特徴として挙げられていたことと、現況で実施されていた住宅地とは違う点が多かった。
戸建て住宅が作る都市空間イコール戸建て住宅地としていたが、住宅地はあくまで住宅地として完結されていたように感じた。都市においての位置とか、都市との関係性とかからは何か分断されているように思えた。
マスタープランがないことが魅力的な都市形成の要素としていたけれども、完全に宅地計画としてのプランがある。
住宅地の計画はきちんと考えられて作っているけれども、住宅自体は住宅の貧困と問題視されているハウスメーカーのものといったこと。
逆に、中世以降、都市計画という概念、計画性というものが必要になってからの時代、に作られた住宅地がとても参考にされていた。住宅地として計画された街の研究と分析、そこのさまざまな試みなどの結果や経緯など。
工期間の短縮だったり、自動車との共存だったり、やはり、その環境、状況、背景など時代が近い分だけ、参考しやすいのは否めないし仕方ないことなのだと思った。中世に形成された街の形成過程の状況と、現代では違いすぎて対応させるのはなかなか難しいことも感じられた。
また、現代においても住宅地という考え方が本当に良いのかという疑問も感じた。今でも人々を惹きつけてやまない中世の都市の時代には、住宅地という概念はなかった。現在、日本の社会背景としても、都市部とベッドタウンの区別が問題になってきているようにも感じるし、郊外よりも都心部、もしくは都心部よりに住まいを求める人が増えてきていることも事実としてあると思う。
住宅ではなく、住宅地、住宅地の環境の設計という都市と住宅の中間、どちらの要素も含んでいることになり、また、都市と住宅の発展や展開は必ずしも同じく進行していくとは限らない。
おそらくまだ本当に実験的な段階で、近代からであるものも、まだその先は見えていなくて、結論はつけられない。時代の違いもあるし、場所の違いもある。そこでの研究、成果は挙げられる。けれどその場所も世界とともに時間とともに動き続けるのだから、結論はないのだろうと考えた。また、そのあたりのバランスを大事に、学んで得た成果を創出することが、さらに新しい発見をするためにも必要なのだとも感じた。
「環境設計」
05d7097 成毛 香月
今回、二瓶正志先生に「戸建て住宅地の環境設計について」という題でお話をしていただいた。そのなかで二瓶正志先生は「建築30年に対して、道路だとか風景は100年残る!」とおっしゃっていた。
本当に道路などの風景は二瓶正志先生のおっしゃるとおりであると思う。たまに自分の実家に帰ったり、または久しぶりに行った場所に新しい建物が建っていたとしても、なぜか懐かしさを感じる事が多々ある。それは、私の頭の中のどこかに、風景が刻み込まれているからであると思う。
しかしながら、都市空間というのは1度作ったらなかなか変える事のできるモノではない。全く新しく作る事もできない。すごく長い時間をかけて、ゆっくりと出来上がっていくものだ。だから、ある程度の計画性が必要になってくるのだと思う。きちんと計画してから作っていくことによって、とてもきれいな町並みが出来上がると思う。
講義の中で、フィレンツェの写真を見た。赤褐色に統一された町並みの写真だった。建築物が特にきちんと並んでいるわけではなかったが、とても良い風景だった。路地に後から取り付けられたであろう手洗い場も、絵になっていてとても魅力を感じた。長い時間をかけて出来上がった、すばらしい風景だと感じた。
日本では公共の場と私有地をきっちりと分断している。近代以降、私有地をがっちりとした囲いで囲んでしまうようになった。なんでこのようになってしまたのだろうか。都市空間が虚しく見える。
しかし最近では、私有地に並木道を作ったり、60〜100センチ後退させるなどして、セミパブリックな空間を作り、公共的に良くなってきている。二瓶正志先生が携わった、千葉の後退させて緑化をしている道はすてきだった。
ただ、どの計画も1件の家だけでは無理な事であって、いくつもの家が集まってからこそ、実現可能な計画であると感じた。
今ではあまり見る事のできなくなった、道路での立ち話、子供たちがちょっと遊べるような空間が、またできるように近隣の人たちで協力して環境設計をしていく事が大事だと思った。
by a-forum-hosei
| 2007-10-29 21:31
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