2006年 11月 06日
第五回講義 富永譲教授 |

テーマ「風景の構想」
第五回目の建築フォーラムは、富永譲教授に講義していただきました。
講義の冒頭、富永先生の建築に関する考え方を話して下さり、建築を作る意義、よい建築とは何かを知る上で今後非常に重要になってくるでしょう。
富永先生のテーマ「風景の構想」とは、単によい景観のことを指すのではなく、自分と相手との対象の中から生まれる人々の活動が、連続的に起こりうる場所を作ることであり、それがうまくできていればいい建築なのではないか、というように私は解釈しました。
だから、建築の平面図(プラン)を見たときにカタチとして面白いというのは限界があって、その先に行くには、デザイナーである設計者の意図が落とし込まれ、それが読み取れるようなプラン、つまりプランから人々の活動が風景となって浮かぶようなプランが面白いということです。
また、富永先生は建築に対する考え方で、こうもお話くださいました。
「建築は、脳内空間と自然のもつ場の測量術が合体してできる場所が重要である。」
これは、F・ライトの落水荘の敷地がもともと自然のなかにあった何の変哲もない小さな滝に、あのような建築をおくことで、その滝は一層引き立てられ、その場所はすばらしい物となりました。本来建築とは、自然界のもつ魅力を引き出すことができるのです。だから、近年の都市開発は、経済の道具としての建物が増えているので、先述のような建築の意味がなくなって来ているという現状があります。
「ひらたタウンセンター」2003年

ウイングとパッサージュと名づけられた二つの対照的なパーツで構成される建物です。田んぼの中に水平な立面(エレベーション)とし、そのボリュームの中に公共施設の機能と、鳥海山を眺めながら地元の住民が施設を利用する風景をプランに落とし込んで設計されました。だから、建築のプランは鳥海山と平行にして、建物の周囲は見え隠れのランドスケープと、季節ごとに雰囲気が変わる田んぼが地元住民の日常の会話となります。
鳥海山は、自習スペース、ホール、図書館などからも見ることができ、地元住民が鳥海山を必要としていることに気づかされます。
地元住民が山を見ると喜んでいる姿、季節による田んぼなどの周辺環境の変化を取り入れ、設計されたひらたタウンセンターは、もとある空間を活かして作られた建築であると思います。
「エンゼル病院」2004年

敷地は北九州市のとある丘の上。丘は岩盤でできており、難工事が予想されました。
この病院のプロポーザル時のコンセプトは「リゾートホテルのような産婦人科」というものであり、それは何故かというと子供が生まれるということは、その家族にとって結婚と同じようなイベントであり、それをケアするための建物にしたいからだそうです。
そのため、回遊性のあるプランにして、丘の上にあることで得られる360°の風景を取り込むようにしました。
分娩室の設計の時は、妊婦の気持ちを考えて、さまざまな内装のものがあるようです。
「成増高等看護学校」2006年

敷地は公園の真ん中で、富永先生は公園をなくさずにつくることを研究しました。というのも、その公園には桜の木が植わっていて、春になれば花見の人で賑わうからです。
また、建物を計画する際、斜面となっている自然の地形を活かして、斜面の上からの風景を見えるようにしたい、ということと、昔から建っていたようにしたい、ということを目指して設計されたそうです。
建築のプランが面白そうな、というよりは、出来上がった建築が多様性をもつようなものがいい、と富永先生は考えられており、時間を重ねるといろいろわかってくる。スタティック(静的)だが内容の変化がある、発見があるような建築を目指されました。
今回の講義は、哲学的な内容もあり、デザイナーとしての建築家の立場がどうあるべきかの指南をしていただいたように感じました。それだけに難しくなり勝ちな哲学のようなお話を、われわれがイメージしやすいようにお話してくださり、非常に勉強になりました。
Date:10月30日
レポート:W-STUDIO T,A
写真撮影:W-STUDIO M,E
写真提供:富永教授
---------------------------------------------------------------------
富永譲(とみながゆずる)
1967年 東京大学工学部建築学科卒業
1967~1972年 菊竹清訓建築設計事務所勤務
1972年 フォルム・システム研究所設立
2003年 「2003年度日本建築学会賞(作品)」受賞(ひらたタウンセンター)
現在 フォルム・システム設計研究所主宰
法政大学工学部教授
日本女子大学住居学科非常勤講師
---------------------------------------------------------------------
以下、学生のレポートを載せます。
「ごく自然な流れ」04D7019 円城寺香菜
今回の富永先生の講演では、先生の3つの作品が紹介された。それらのうちのひとつ「成増高等看護学校」の説明の中で、興味深い言葉があった。 『ごく自然な流れ』 この言葉を聞いたとき何故かとても心地よい、とてもさわやかでなんとなく落ち着くような、そんな印象を受けた。不思議だった。何か特別珍しい言葉が使われていてそれが印象的であったとかそういうわけではないのだが、頭の中にいつまでも残りとても気に入ってしまった。この「成増高等看護学校」は、1Fの玄関ホールを抜けるとそのまま真っ直ぐに敷地の地形に合わせた勾配で上へと上がれるようになっている。富永先生はこの説明を、『ごく自然な流れ』に沿って上へ上がるとそこには別世界が広がっている、と表現されていた。私がこの『ごく自然な流れ』という言葉に受けた印象と同じように、建物のその箇所はとても居心地の良いさわやかな様子に見えた。
今回の講演の中で、設計をする際に元ある場所(敷地)に何度も通いつめ、風景を感じ理解することが大切だと富永先生は強調されていた。それは前回のフォーラムで長谷川先生がおっしゃっていた話とも共通することで、私たちは“元々ある場所・元々あるもの”にどうつくるかを考えなければいけないということだ。そのためにはまず、元々ある場所やものをよく理解しなければならない。特に風景というもの、それは単に資料を集めて研究したり、写真や映像を見たりという間接的な方法での理解だけでは不十分である。なぜならば風景とは、富永先生がおっしゃっていた通り風を感じるものであるからだ。それは実際にその場に行ってはじめて感じることができるものだ。視覚的なものだけでなく、気温や音においなど様々なことで新しい発見があるだろう。
これまで自分が課題で設計をするとき、何か新しいものをつくりたいとか、何か他の人と違うことをしたいとか、何か周りの人を驚かせたいとか、そのようなことばかりを意識しすぎていたかもしれない。敷地の調査をしてはいるものの、その場所の風景を感じてというよりはむしろ、この場所にないものは何かとか新しくこんなものができたらこう変わるんじゃないかとか、そのようなことばかり考えていた。もちろんそう考えること自体は大切だと思う。しかしその場所に何か足りないものを補うような建築を作りたいと考えても、その答えは必ずしも真新しいものではなく、元ある場所やものからヒントを得た、つまりその場の『ごく自然な流れ』を取り入れたものかもしれない。今までの自分は、この『ごく自然な流れ』を大切にしなさすぎていたかもしれない、とはっとした。
何度も繰り返しになってしまうかもしれないが、私たちは建築を風景と一緒につくるのであり、そのパートナーを理解もせず大切にもせずでは決して良い建築はつくれないだろう。その場を訪れて何も考えずに無心でふと「あっなんだか居心地が良いな」と感じたことだとか、何度も通いつめていつもこの時間に同じようにこんな音がするとか、しゃがんでみると立ってるときと別のにおいがするとか、自分が感じた何気ない風景をもっと大切にしたい。『ごく自然な流れ』はいつもその場所にあるのだろうが、意識していないと気づかなかったり、気づいていても通りすぎてしまうかもしれない。だから私も、今回この講演で妙に頭に残った『ごく自然な流れ』という言葉とその意味を大切にしたい。
「場への意識」04D7112 三浦 寛滋
建築が「場」をつくる。
当たり前のことかも知れない。教科書にものっていたが壁がひとつ立つだけで空間は前の状態から限定される。囲われてしまえばそこには独立した空間が「生まれる」。建築が建つことで建築が内部と外部を作り出す。いままではなにもなかった空間に区別ができる。内部にたいしては器として働き、建築自体が外部となる。そのことを意識して建築家は設計をする。
しかし、建築が建ち、空間を定義する前からそこには既に「場」が存在している。大地があり、大気があり、緑が存在していた場だ。人にとってはたいした所ではなかったかもしれない。しかし、その「場」をまったく無視して建築を作り、場を新しく生み出してしまってはならない。すでにあった場にたいしてアプローチをすることが建築家の重要な課題であるように感じる。
先日の長谷川先生の話にもあったが風景は常に存在しているものだ。美しいもの、うつくしくないもの、見慣れたまちや水溜り。意識してなくても目に入ってくるもの全てが風景となる。
場の性質は風景ととても似ている。むしろ人が使う言葉が少し異なるだけではないだろうか。なにげなしに存在するもの。気づかなければないようにみえるもの、気づけばその存在が発生する。建築はその「場」のポテンシャルを引き出す道具としても機能していくべきだ。
たとえば、先生がおっしゃられたひらたタウンセンターの話で言えば、向きを90度変えたことは建築を敷地内だけで見た場合アクセスに多少の変化は起きるかもしれないが、内部空間は変わらない。外部にも建築が存在するという意味では変化をもたらさない。前者の考えでいえばそうなるだろう。しかし、実際は違った。まず、90度回転したこと自体が場による影響をかんがえたものであること。ちょうかい山の存在がそこにはあった。建築が存在する前からひらたの町を、場をある意味で支配してきたものだ。先生はその場と同時に地域の方の場への意識にも共感し最終的にはプランを変えた。場による支配に、存在に逆らわない。建築の美としてではなく場に迎合したのだ。実際そうすることで建築とひらたという「場」を豊かなものとした。
ライトの落水荘もその例だ。もともと観光スポットでもない滝を人が目を見張る景色に変えてしまった。この建築はこの滝を持つという場によってのみ生まれたものだ。また人にとって滝というその場の存在を生み出した。場によって生まれ、場を生み出す。
にわとりと卵どちらがさき?
考え方によってはそんなことにもなってくる。意識の違いであろうか。建築を建てたことでもとあった場を人の意識に存在させることができる。また、建築をふくめそこには前にはなかった場なるものも新たに存在する。物理的にいえば答えは明快だが、人がする意識という行為を通して考えると、曖昧なものでもある気がしてくる。
場への理解は建築を自然に溶け込ませ、あらたな意味や、場の強調へとつながる行為だ。
変わっていく景色、光や風、かわらない場所の意味、それらを読み解き、建築に取り込んでいく。また逆に風景に建築を取り込んでいく。建築は場を作り出していくものだということにはかわりはない。しかし、「場」は既に存在している。建築家は意識のなかで「場」と「建築」とのいたちごっこをみているのではないだろうか?
by a-forum-hosei
| 2006-11-06 14:49
| 2006