2006年 10月 30日
【第4回】長谷川浩己さん講演 |
テーマ「変わるということ」
第4回目の建築フォーラムは、日本において『ランドスケープ』という言葉をはじめて持ち込んだのではないかと渡辺先生からも冒頭であったように、ランドスケープを中心に計画をしているオンサイト設計計画事務所の代表、長谷川浩己さんを講師に迎えて行われました。
いくつかのキーワードとなる単語や風景をあげてひとつひとつ説明をされました。いくつかをとりあげてレポートしたいと思います。
『東福寺』
市松模様に石と苔が敷かれた禅の庭です。もともとは、苔と石は正確な市松模様を作り上げていましたが月日がたち、季節がめぐるごとに苔が生長して盛り上がり、凹凸を見せて石の部分にまで及んでいます。
また、石も気候や歳月によって、色味がそれぞれ異なってきています。
月日がたつことで、その見た目が変化していくという風景の代表的なひとつです。
『駅前の自転車』
駅前の歩道や路地などに駅利用者の自転車がたくさん止まっているという日本でよく見られる光景です。
「ここに自転車を止めたい」という他者による欲求により、ここに自転車が止められていて、それは朝になると一気に自転車が並び、夜になると散っていくという現象がサイクル的に起こっています。そのニーズというのは誰もとめられることができない。
こういった日常にある風景からも学べることがあるということでした。
同じようにある人(モノ)の要求により出来上がっている風景は他にもたくさんあると続けます。
『山の間を抜ける道』
これは長谷川さんがアメリカで撮った写真だそうです。
アメリカの大地の上で、切り崩されて、山の間に道がのばされたこの風景は、人が遠くに早く行きたいという単純な要求によって作られています。
『棚田』
日本でよく見られる棚田は、山が多く平地の少ない土地でも田んぼを作る方法ですが、これも人がここで食べて暮らしていきたいという要求がもともとはありました。
そこにどういった要求があるのか、あるいはどういった根本があるのかということが重要で風景はいい悪いでは語れない、ということでした。
こういったランドスケープに対する視点を教えていただき、実際に長谷川さんの作品も紹介していただきました。
『ホテル・プレストンコート 中庭』
ここで長谷川さんがデザインしたことは『林を林らしくする』ということだそうです。
木を新たに植え込みする時、多くは地上で三脚鳥居等の支柱をもうけて木を安定させるそうですが、このプロジェクトでは地中で木を支える構造によって安定させて、『木を木らしく』全体として配置や枝の状態などを含めて『林を林らしくする』ことを実現させています。
一見何もしてないように見えますが、無意識の感覚に働きかけるようにデザインをしたのだそうです。
『今あるものをどう生かすか』ということを考え、それに対してコネクションをつけて新たに関係性を導くかということは常に考えていることだそうです。
『横浜ポートサイド公園』
みなとみらい地区を眺める場所に位置するこの公園でも、『今あるものをどう生かすか』など長谷川さんの考えていることを実行しています、これは特に周りの風景を意識したそうです。
写真は横浜みなとみらいのビル郡の風景と照明が同化して、場の風景を作っています。
風景とはその敷地の中で収まらず、たとえば周りのビルや空など、外のものによってもできているということです。これは建築でも同様のことでよく分かるかと思います。
『東雲CODAN ランドスケープ』
大きなプロジェクトを手がけるとき、大きな分関わる人数も多くなり、それをうまくまとめ、またそのメリットを生かすためにも、緩やかなルールを長谷川さんが設定して、他のデザイナーたちがそれにのって進めていくという方法をとることがあるそうです。
東雲キャナルコートでは何名もの建築家や照明デザイナーなど様々な人が関わっている為、シンプルなルールを決めてデザインされています。
ここでシンプルなルールとなるのは中央にS字にうねる道、そこから延びる6本のな広場からこのランドスケープができるということかと思います。
単純なアプローチから、色んな人の手が加わることにより複雑化して全体が出来上がっているそうで、シンプルでありながら多様な広がりと可能性をもったランドスケープとなっています。
『今あるものをどうしたいのか』それを誘発的にデザインすることが、長谷川さんが設計する際の根本となっているようでした。
今回の話の中で、『他人と他者』について長谷川さんの解釈を述べていました。
他人は知っているけれど、あえてコミュニケーションをとらない人
他者は存在は確かにあるけれども、コミュニケーションをとろうと思ってもどうしてもできない人、しづらい人。例えば、植物・石などの人間ではないものや「駅前の自転車」の話でも出てきた駅前にとめる不特定多数の人々などです。
『風景と他者が拮抗することによって風景が出来上がっている』と何度かおっしゃっていましたが、今回の講演を聞いていれば他者という存在とそれが何らかの変化をすることとによって風景が出来上がることは、よく理解できたのではないでしょうか。
長谷川さんは植物や石のことを「彼ら」と人称(代名詞)で呼んでいたのも、この考えがあるからこそなのではないかと思い、とても印象に残ったお話でした。
3年生の中期課題の講師として長谷川さんもきてくださり、ランドスケープの課題に受講者は取り組むそうですが、そのときには今回の長谷川さんのお話を頭に置きながら設計を進めていくとよいのではないでしょうか。
Date:10月23日
写真提供:長谷川浩己さん
レポート:M1、M.T
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長谷川浩己
1981年 千葉大学園芸学部環境緑地学科卒業
1985年 オレゴン大学大学院
ランドスケープ・アーキテクチャー修士修了
1998年~有限会社オンサイト計画設計事務所、代表取締役
2000年~東京理科大学非常勤講師
2005年~法政大学非常勤講師
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学生レポート
『DetailとDetailとDetail』 04d7119宮本裕也
私たちが普段生活しているなかで、なんとなく不快な街並がある。なんとなく気持ちがいい坂道がある。なんとなく不思議な裏道がある。そんな“なんとなく”にはきっと確かなディテールがあって、その小さな要素が風景をつくっているのだろう。ランドスケープを考えることとは、そんなディテールについて真面目に考えるということなのではないだろうか。
きれいな自然も風景、雑居ビル群も風景、路地裏の民家も、違法駐輪も。私たちの生活そのものが一つ一つの風景の繋ぎ合わせで出来ている。目に飛び込んでくるさまざまな場面、その詳細をできるだけ見逃さないように意識を向けて行く、そしてそこにどんなアプローチが出来うるのかを考えること。それがこれからの私たちの生活を変えていく鍵となるだろう。
ランドスケープをテーマに扱うことは、一見ネガティブなことにも思える。というのは、講演のなかでの話にもあったように、風景というのはさまざまな力が偶然的に錯綜して、あるバランスのなかで浮かび上がってきた計画されないものとも捉えられるからだ。しかし、あるバランスをとってそこに存在する風景に対してちょっと力を加えてやることでその見え方を大きく変えられるとしたら、それは大規模な都市計画より数倍魅力的なことなのではないか。講演のなかで話された、テレ朝通りのビルの再生計画の話の興味深いところは、いままで目を向けられることの無かったビルが最小限の操作で通りに対する存在のしかたを変えてしまったことだ。また林のなかに道を通すだけの計画は、人々が、新たに作った道自体ではなく、その道があることで自然に目を向けるようになるというところが面白い。この2つのプロジェクトは、“もともとそこにあるもの”に対していかに意識の向け方を変えられるか、そのデザイン性を考えさせらせられるものであったと思う。
普段建築を学んでいて、ものをつくることについて考えることは少なくない。そしてまた、つくられたものを目にしたりもしている。ただ、その見ているものには必ず背景があって、その相対的イメージでものを捉えているということを忘れがちで、目の向け方次第で新たな発見があると感じた。そしてそれは、“すでにそこにあるもの”のポテンシャルが活きる風景ができれば、それだけでデザインになるのだということだった。そこにあるもの、それらがそれ相応にして変わっていくこと。そこにある下地みたいなものを読み込んで目指すべき方向を見極めたい。
気候、風土、機能、法規、いろいろなものがいろいろなカタチで風景のディテールをつくっている。つまり、デザインのアプローチはある一方向からのみではないのだ。まずはなんとなく感じていたことの要素を拾っていくこと、ディテールに目を向けてみることがデザインの始まりなのではないか。
『建築フォーラムレポート』 03d7055笹川和晃
「形を作るのではなく、現象をつくりだしたい」
これは長谷川さんが、講演の途中で言った言葉なのだが今回の講演を聞いて、この言葉にすべてが集約されていると思った。
さまざまな事例を紹介し自然の力、人間の力、それぞれの力の拮抗の状態など、常に現象を追い求め現象を起こし(起こすというと御幣があるかもしれないが)ダイナミズムを求めている。ダイナミズムといっても、スケールの大きさだけではない。制限できない力、微弱であるが確実でじっくり時間をかけてでも起こっていく現象も長谷川ダイナミズムの定義に入るのだ。
その中で東福寺にあるコケのお話をしていた。私はこの夏京都を訪れ、東福寺ももちろん行ったが、方丈園の庭園は見なかった。まったくもったいないことをしたと思った。だが長谷川さんのおっしゃってたことが染み入るようにわかる。今回は市松模様で石と緑のじゅうたんのコケが覆うものであった。石は変わることなくそこにずっと変わらない景色、色、質感、を保ちこけのじゅうたんが膨らみ変形し枯れ色を変える。風景に時間をもデザインしていて普遍性を感じる。ただそこにあるのでなく、すべてが変化するのではなく、あるところでは状態を保ちながら、かつ変化していくその様に昔の日本人は世界観を凝縮しているように感じるのだ。ただ、ここでおっしゃいたかったのは、コケのすばらしさではない。そこに自然が介入することによって、現象が生まれ時間を人に思わせること。現象を生み出す自然の力に感銘を受けているように感じた。
サグラダ・ファミリア設計のアントニオ・ガウディは言っている。「私は、デザインしているのではなく、自然の中から発見しているだけだ」と。自然の力の雄大さ。人間の想像力の凌駕したところに自然の力が存在することを感じていたのだろう。ガウディの設計した建築物は、卓上の計算物だけではなく、実際の実験に特に重きを置いた。実際に体験し、現実に起こるのかどうか、自然のちからに反しないかどうか、確かめることを怠らなかったという。長谷川さんの言った力というのは、自然物の話だけではないが、そういった絶対的な力の存在というのに興味があるようだった。
ただ、ガウディと違う点がある。力の拮抗を視野に入れていることだ。ヴェネチアの景観の話、権力による都市のポケット、路地における発泡スチロールの植木、力の存在があってそれに抗う力の存在。絶対的な存在に対しての対抗。そういったものに思いをはせる。
それは最初の言葉に戻るが「形」ではなく「現象」を追求しているからにちがいない。
第4回目の建築フォーラムは、日本において『ランドスケープ』という言葉をはじめて持ち込んだのではないかと渡辺先生からも冒頭であったように、ランドスケープを中心に計画をしているオンサイト設計計画事務所の代表、長谷川浩己さんを講師に迎えて行われました。
いくつかのキーワードとなる単語や風景をあげてひとつひとつ説明をされました。いくつかをとりあげてレポートしたいと思います。

市松模様に石と苔が敷かれた禅の庭です。もともとは、苔と石は正確な市松模様を作り上げていましたが月日がたち、季節がめぐるごとに苔が生長して盛り上がり、凹凸を見せて石の部分にまで及んでいます。
また、石も気候や歳月によって、色味がそれぞれ異なってきています。
月日がたつことで、その見た目が変化していくという風景の代表的なひとつです。
『駅前の自転車』
駅前の歩道や路地などに駅利用者の自転車がたくさん止まっているという日本でよく見られる光景です。
「ここに自転車を止めたい」という他者による欲求により、ここに自転車が止められていて、それは朝になると一気に自転車が並び、夜になると散っていくという現象がサイクル的に起こっています。そのニーズというのは誰もとめられることができない。
こういった日常にある風景からも学べることがあるということでした。
同じようにある人(モノ)の要求により出来上がっている風景は他にもたくさんあると続けます。

これは長谷川さんがアメリカで撮った写真だそうです。
アメリカの大地の上で、切り崩されて、山の間に道がのばされたこの風景は、人が遠くに早く行きたいという単純な要求によって作られています。
『棚田』
日本でよく見られる棚田は、山が多く平地の少ない土地でも田んぼを作る方法ですが、これも人がここで食べて暮らしていきたいという要求がもともとはありました。
そこにどういった要求があるのか、あるいはどういった根本があるのかということが重要で風景はいい悪いでは語れない、ということでした。
こういったランドスケープに対する視点を教えていただき、実際に長谷川さんの作品も紹介していただきました。
『ホテル・プレストンコート 中庭』
ここで長谷川さんがデザインしたことは『林を林らしくする』ということだそうです。
木を新たに植え込みする時、多くは地上で三脚鳥居等の支柱をもうけて木を安定させるそうですが、このプロジェクトでは地中で木を支える構造によって安定させて、『木を木らしく』全体として配置や枝の状態などを含めて『林を林らしくする』ことを実現させています。
一見何もしてないように見えますが、無意識の感覚に働きかけるようにデザインをしたのだそうです。
『今あるものをどう生かすか』ということを考え、それに対してコネクションをつけて新たに関係性を導くかということは常に考えていることだそうです。
『横浜ポートサイド公園』

写真は横浜みなとみらいのビル郡の風景と照明が同化して、場の風景を作っています。
風景とはその敷地の中で収まらず、たとえば周りのビルや空など、外のものによってもできているということです。これは建築でも同様のことでよく分かるかと思います。
『東雲CODAN ランドスケープ』

東雲キャナルコートでは何名もの建築家や照明デザイナーなど様々な人が関わっている為、シンプルなルールを決めてデザインされています。
ここでシンプルなルールとなるのは中央にS字にうねる道、そこから延びる6本のな広場からこのランドスケープができるということかと思います。
単純なアプローチから、色んな人の手が加わることにより複雑化して全体が出来上がっているそうで、シンプルでありながら多様な広がりと可能性をもったランドスケープとなっています。
『今あるものをどうしたいのか』それを誘発的にデザインすることが、長谷川さんが設計する際の根本となっているようでした。
今回の話の中で、『他人と他者』について長谷川さんの解釈を述べていました。
他人は知っているけれど、あえてコミュニケーションをとらない人
他者は存在は確かにあるけれども、コミュニケーションをとろうと思ってもどうしてもできない人、しづらい人。例えば、植物・石などの人間ではないものや「駅前の自転車」の話でも出てきた駅前にとめる不特定多数の人々などです。
『風景と他者が拮抗することによって風景が出来上がっている』と何度かおっしゃっていましたが、今回の講演を聞いていれば他者という存在とそれが何らかの変化をすることとによって風景が出来上がることは、よく理解できたのではないでしょうか。
長谷川さんは植物や石のことを「彼ら」と人称(代名詞)で呼んでいたのも、この考えがあるからこそなのではないかと思い、とても印象に残ったお話でした。
3年生の中期課題の講師として長谷川さんもきてくださり、ランドスケープの課題に受講者は取り組むそうですが、そのときには今回の長谷川さんのお話を頭に置きながら設計を進めていくとよいのではないでしょうか。
Date:10月23日
写真提供:長谷川浩己さん
レポート:M1、M.T
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長谷川浩己
1981年 千葉大学園芸学部環境緑地学科卒業
1985年 オレゴン大学大学院
ランドスケープ・アーキテクチャー修士修了
1998年~有限会社オンサイト計画設計事務所、代表取締役
2000年~東京理科大学非常勤講師
2005年~法政大学非常勤講師
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学生レポート
『DetailとDetailとDetail』 04d7119宮本裕也
私たちが普段生活しているなかで、なんとなく不快な街並がある。なんとなく気持ちがいい坂道がある。なんとなく不思議な裏道がある。そんな“なんとなく”にはきっと確かなディテールがあって、その小さな要素が風景をつくっているのだろう。ランドスケープを考えることとは、そんなディテールについて真面目に考えるということなのではないだろうか。
きれいな自然も風景、雑居ビル群も風景、路地裏の民家も、違法駐輪も。私たちの生活そのものが一つ一つの風景の繋ぎ合わせで出来ている。目に飛び込んでくるさまざまな場面、その詳細をできるだけ見逃さないように意識を向けて行く、そしてそこにどんなアプローチが出来うるのかを考えること。それがこれからの私たちの生活を変えていく鍵となるだろう。
ランドスケープをテーマに扱うことは、一見ネガティブなことにも思える。というのは、講演のなかでの話にもあったように、風景というのはさまざまな力が偶然的に錯綜して、あるバランスのなかで浮かび上がってきた計画されないものとも捉えられるからだ。しかし、あるバランスをとってそこに存在する風景に対してちょっと力を加えてやることでその見え方を大きく変えられるとしたら、それは大規模な都市計画より数倍魅力的なことなのではないか。講演のなかで話された、テレ朝通りのビルの再生計画の話の興味深いところは、いままで目を向けられることの無かったビルが最小限の操作で通りに対する存在のしかたを変えてしまったことだ。また林のなかに道を通すだけの計画は、人々が、新たに作った道自体ではなく、その道があることで自然に目を向けるようになるというところが面白い。この2つのプロジェクトは、“もともとそこにあるもの”に対していかに意識の向け方を変えられるか、そのデザイン性を考えさせらせられるものであったと思う。
普段建築を学んでいて、ものをつくることについて考えることは少なくない。そしてまた、つくられたものを目にしたりもしている。ただ、その見ているものには必ず背景があって、その相対的イメージでものを捉えているということを忘れがちで、目の向け方次第で新たな発見があると感じた。そしてそれは、“すでにそこにあるもの”のポテンシャルが活きる風景ができれば、それだけでデザインになるのだということだった。そこにあるもの、それらがそれ相応にして変わっていくこと。そこにある下地みたいなものを読み込んで目指すべき方向を見極めたい。
気候、風土、機能、法規、いろいろなものがいろいろなカタチで風景のディテールをつくっている。つまり、デザインのアプローチはある一方向からのみではないのだ。まずはなんとなく感じていたことの要素を拾っていくこと、ディテールに目を向けてみることがデザインの始まりなのではないか。
『建築フォーラムレポート』 03d7055笹川和晃
「形を作るのではなく、現象をつくりだしたい」
これは長谷川さんが、講演の途中で言った言葉なのだが今回の講演を聞いて、この言葉にすべてが集約されていると思った。
さまざまな事例を紹介し自然の力、人間の力、それぞれの力の拮抗の状態など、常に現象を追い求め現象を起こし(起こすというと御幣があるかもしれないが)ダイナミズムを求めている。ダイナミズムといっても、スケールの大きさだけではない。制限できない力、微弱であるが確実でじっくり時間をかけてでも起こっていく現象も長谷川ダイナミズムの定義に入るのだ。
その中で東福寺にあるコケのお話をしていた。私はこの夏京都を訪れ、東福寺ももちろん行ったが、方丈園の庭園は見なかった。まったくもったいないことをしたと思った。だが長谷川さんのおっしゃってたことが染み入るようにわかる。今回は市松模様で石と緑のじゅうたんのコケが覆うものであった。石は変わることなくそこにずっと変わらない景色、色、質感、を保ちこけのじゅうたんが膨らみ変形し枯れ色を変える。風景に時間をもデザインしていて普遍性を感じる。ただそこにあるのでなく、すべてが変化するのではなく、あるところでは状態を保ちながら、かつ変化していくその様に昔の日本人は世界観を凝縮しているように感じるのだ。ただ、ここでおっしゃいたかったのは、コケのすばらしさではない。そこに自然が介入することによって、現象が生まれ時間を人に思わせること。現象を生み出す自然の力に感銘を受けているように感じた。
サグラダ・ファミリア設計のアントニオ・ガウディは言っている。「私は、デザインしているのではなく、自然の中から発見しているだけだ」と。自然の力の雄大さ。人間の想像力の凌駕したところに自然の力が存在することを感じていたのだろう。ガウディの設計した建築物は、卓上の計算物だけではなく、実際の実験に特に重きを置いた。実際に体験し、現実に起こるのかどうか、自然のちからに反しないかどうか、確かめることを怠らなかったという。長谷川さんの言った力というのは、自然物の話だけではないが、そういった絶対的な力の存在というのに興味があるようだった。
ただ、ガウディと違う点がある。力の拮抗を視野に入れていることだ。ヴェネチアの景観の話、権力による都市のポケット、路地における発泡スチロールの植木、力の存在があってそれに抗う力の存在。絶対的な存在に対しての対抗。そういったものに思いをはせる。
それは最初の言葉に戻るが「形」ではなく「現象」を追求しているからにちがいない。
by a-forum-hosei
| 2006-10-30 23:58
| 2006