2009年 01月 02日
第6回 藤江 和子さん |
今回の建築フォーラムは、家具デザインを手がける藤江和子さんに、「究める―身体をとおして」というテーマでご講演をしていただきました。

ご講演はまず、「家具・建築を通した身体のあり方について考える」という藤江さんのお言葉と、オープンスクールである加藤学園初等学校(1972)の紹介から始まりました。子どもたちが木製のロッカーの上で楽しそうに立ったり座ったり、まるで遊具のように使っている印象的な写真を見せていただきました。家具デザインの際に藤江さんが“身体”について大切にされていることが、この一枚の写真を見ただけでも一気に伝わってくるような気がしました。
続けて、代官山ヒルサイドテラスの家具による間仕切りシステムや、代表的なシリーズ作品「くじらシリーズ」「万華鏡シリーズ」「モルフェシリーズ」、建築家の方とコラボレーションされた作品「リアスアーク美術館」「島根県立古代出雲歴史博物館」など、建築設計の規模まで手がけられた「福砂屋 松ヶ枝店」、また大学での作品「福岡大学A棟」など数々の作品を紹介していただきました。
藤江さんのお話の中には、例えば「くじらシリーズ」の“板の厚みに触れる”や、「桐蔭学園メモリアルアカデミウム」の照明・空調・ベンチ・手すりなど様々な役割を果たす“人の行動をうながす壁”、「茅野市民館」での茅野の自然風景を隠さず“体感できるような家具”、「多摩美術大学図書館」の“本の森の中を歩き回るイメージ”“建築とできるだけくっついた家具”という、思わず実際に行って触れてみたくなるようなコンセプトが登場しました。藤江さんご自身も学生たちに、「とにかく実際に行ってみて下さい」「スケール感、距離感を身につけて下さい」と何度もおっしゃっていましたが、それは家具が建築を“体感”するものであるという藤江さんの意思の表れなのだと思います。

くじらシリーズ「東京歯科大学水道橋ビル No. 20 TDC」(1988-1990) 全景
大空間の中に、ひとつのアート作品のような存在感でたたずむ。“板の厚みに触れる”ことのできるベンチ。

くじらシリーズ「東京歯科大学水道橋ビル No. 20 TDC」 ディテール

「桐蔭学園メモリアルアカデミウム Function wall」(1997-2001)
受付窓口、カフェ、厨房など様々な機能が集約された“人の行動をうながす壁”。家具と建築の間のような規模の作品。

「茅野市民館」(2002-2005)
茅野駅駅舎に直結した細長い空間の図書館に、茅野の風景を “体感できるような家具”がデザインされた。

「多摩美術大学図書館」(2006-2007)
この建築の特徴である目線より上のアーチを活かすため、高さを抑えた曲線の本棚。図書館が“本の森の中を歩き回るイメージ”になるよう計画された。
最後に質疑応答の際、家具をデザインしやすい建築はどのようなものか、という質問がありました。その際、「空間にメッセージのある建築」という藤江さんのお答えはとても印象的で、学生たちは改めて引き締まる思いになったのではないでしょうか。藤江和子さん、貴重なお話どうもありがとうございました。

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以下、学生のレポートです。
「究める―身体をとおして」を聞いて
g06d7033 川西乃里江
今回の講演を聞いて、家具への考え方が少し変わったような気がする。
まず、藤江和子さんは家具デザイナーという肩書きではあるけれど、椅子や本棚といった一般的な家具から、家具というよりは建築に近いようなものまで、たくさんの作品を手がけていて、しかもその作品一つ一つがアートとしても成り立つようなもので、家具とひとくくりで言っても本当に数多くのものがあるのだと感じた。
また、今までは、家具自体がもつフォルムのことを家具の美しさとして認識していたけれど、家具と建築が織り成すハーモニーのようなものにも美しさがあるのだと感じた。
藤江さんの作品は、空間に何かを発しているアートのようなものであった。その場所にその家具があることで発生する人と人とのつながりや、人と環境との関係が深く考えられていて、なんだか建築と似通った点があると思った。
藤江さんはものを“つくる”ということへの強いこだわりを持っている方だ。万華鏡シリーズがコンピューターの発達によって簡単に作り出せるようになり、その形態への興味が薄れたとおっしゃっていた。コンピューターは短時間で数多くの形態を生み出すことができるけれども、やはり、手を使って生み出すということは作品に魂をこめるような作業であって、作品への愛着が増すのだと感じた。
最近、建築が家具化しているが、藤江さんの作る家具は、家具の建築化といえるだろう。私は、この二つの現象はとても良いことだと思う。ハコの中にあるオモチャのよう自由に出し入れできて、いつでも交換できるという建築と家具の関係から、その場でしか成立しない家具(家具建築)、その空間を利用する人にこそ使ってほしい家具といったような家具と建築の関係に魅力を感じる。
藤江さんは家具を作る際に、建築家の意図を読み取るとおしゃっていた。建築を作る際にも敷地を調査したり、その場に隠れている背景を読み取って設計していく。家具の場合は、その作業がひとつ内側で行われている。
家具が生み出すその場の空気が建築をよりいっそう引き立たせ、また、家具によって人間の普通の生活を生み出しているということを発見できた。
そこにかくれているもの
~藤江和子さんの講演を聞いて~
06d7095 福井健太
藤江さんが講演を始めるや否や発した言葉に「メモを取ることより、自分で、講演についていろいろ考えて欲しい。」という言葉があった。私は、メモはやはり必要なので取っていたが、なるべくその場その場で藤江さんがおっしゃったことについて考えることにした。
今回の講演を聞き終わり私が一番深く感じたことがあった。それは、“くじらシリーズ”、“万華鏡シリーズ”を話し終えたときにおっしゃられた言葉であった。
「コンピュータが、ものづくりをおもしろくなくしている。」
私たちの生活に今や欠かすことのできなくなったコンピュータのことだけあって少し驚いた。とは言っても多くの場で言われていることでもあるだろう。藤江さんがここに込めた言葉の意味を探っていき、ある一つの結論にたどり着いた。
“くじらシリーズ”と“万華鏡シリーズ”の説明を終え、その当時、藤江さんの事務所にはまだコンピュータが導入されていなかったことをあかし、それまで、全て人間の手でものづくりをしていたとおっしゃった。今までは人間の手作業でものづくりをし、たいへんな労力と時間がかかった。しかし、コンピュータの導入により、手作業がなくなり、時間が短縮された。しかし、その代償にコンピュータを使えば誰にでもどこにでもしかも短時間でデザインされてしまう。藤江さんはこのことに対してものづくりの面白みを失い、今ではくじら、万華鏡、両シリーズに対する興味を失ったようだった。私は製図のクラスで、韓先生のクラスであるが、韓先生がふとこんなことをおっしゃっていた。
“顔のないもの”
きっと藤江さんも同じ事を考えたのではないかと私は考えた。人の手で作り上げたものにはその人の思いが詰まっていて、きっと顔のあるものができると思う。コンピュータという便利さの代償に顔を失ってしまったものたちが地球上にいくつあるだろうか。
そのような思いから、藤江さんの作品を見ていくと、モルフェシリーズに入ってから、形が抽象的になってきたのではないかと思った。そして、その家具には人間の次の行動を予感させるものであったり、家具の配置・幅・大きさを考えることにより、人と人とのつながりを考えたりといった、今までよりいっそう身体を通して、物事を見たり、考えたりした物になっていったのではないだろうか。私はそのように考え、藤枝さんという人物と藤江さんの作品を見て、考えてみた。
家具はINTERFACEであり、INFLUENCEである。いきいきと活動する人々のいる風景を生むために。
家具にはこれほどまでの見えないパワーを持っていたのだということに改めて気づくことができたし、何よりも、自分が体験して、そのときの感覚を大切にすることがこれからの課題にも役立つのではないかと思った。
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DATE : 2008年11月10日
レポート W-studio (テクスト:円城寺、ブログ作成:塚田)
写真提供 藤江和子

ご講演はまず、「家具・建築を通した身体のあり方について考える」という藤江さんのお言葉と、オープンスクールである加藤学園初等学校(1972)の紹介から始まりました。子どもたちが木製のロッカーの上で楽しそうに立ったり座ったり、まるで遊具のように使っている印象的な写真を見せていただきました。家具デザインの際に藤江さんが“身体”について大切にされていることが、この一枚の写真を見ただけでも一気に伝わってくるような気がしました。
続けて、代官山ヒルサイドテラスの家具による間仕切りシステムや、代表的なシリーズ作品「くじらシリーズ」「万華鏡シリーズ」「モルフェシリーズ」、建築家の方とコラボレーションされた作品「リアスアーク美術館」「島根県立古代出雲歴史博物館」など、建築設計の規模まで手がけられた「福砂屋 松ヶ枝店」、また大学での作品「福岡大学A棟」など数々の作品を紹介していただきました。
藤江さんのお話の中には、例えば「くじらシリーズ」の“板の厚みに触れる”や、「桐蔭学園メモリアルアカデミウム」の照明・空調・ベンチ・手すりなど様々な役割を果たす“人の行動をうながす壁”、「茅野市民館」での茅野の自然風景を隠さず“体感できるような家具”、「多摩美術大学図書館」の“本の森の中を歩き回るイメージ”“建築とできるだけくっついた家具”という、思わず実際に行って触れてみたくなるようなコンセプトが登場しました。藤江さんご自身も学生たちに、「とにかく実際に行ってみて下さい」「スケール感、距離感を身につけて下さい」と何度もおっしゃっていましたが、それは家具が建築を“体感”するものであるという藤江さんの意思の表れなのだと思います。

くじらシリーズ「東京歯科大学水道橋ビル No. 20 TDC」(1988-1990) 全景
大空間の中に、ひとつのアート作品のような存在感でたたずむ。“板の厚みに触れる”ことのできるベンチ。

くじらシリーズ「東京歯科大学水道橋ビル No. 20 TDC」 ディテール

「桐蔭学園メモリアルアカデミウム Function wall」(1997-2001)
受付窓口、カフェ、厨房など様々な機能が集約された“人の行動をうながす壁”。家具と建築の間のような規模の作品。

「茅野市民館」(2002-2005)
茅野駅駅舎に直結した細長い空間の図書館に、茅野の風景を “体感できるような家具”がデザインされた。

「多摩美術大学図書館」(2006-2007)
この建築の特徴である目線より上のアーチを活かすため、高さを抑えた曲線の本棚。図書館が“本の森の中を歩き回るイメージ”になるよう計画された。
最後に質疑応答の際、家具をデザインしやすい建築はどのようなものか、という質問がありました。その際、「空間にメッセージのある建築」という藤江さんのお答えはとても印象的で、学生たちは改めて引き締まる思いになったのではないでしょうか。藤江和子さん、貴重なお話どうもありがとうございました。

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以下、学生のレポートです。
「究める―身体をとおして」を聞いて
g06d7033 川西乃里江
今回の講演を聞いて、家具への考え方が少し変わったような気がする。
まず、藤江和子さんは家具デザイナーという肩書きではあるけれど、椅子や本棚といった一般的な家具から、家具というよりは建築に近いようなものまで、たくさんの作品を手がけていて、しかもその作品一つ一つがアートとしても成り立つようなもので、家具とひとくくりで言っても本当に数多くのものがあるのだと感じた。
また、今までは、家具自体がもつフォルムのことを家具の美しさとして認識していたけれど、家具と建築が織り成すハーモニーのようなものにも美しさがあるのだと感じた。
藤江さんの作品は、空間に何かを発しているアートのようなものであった。その場所にその家具があることで発生する人と人とのつながりや、人と環境との関係が深く考えられていて、なんだか建築と似通った点があると思った。
藤江さんはものを“つくる”ということへの強いこだわりを持っている方だ。万華鏡シリーズがコンピューターの発達によって簡単に作り出せるようになり、その形態への興味が薄れたとおっしゃっていた。コンピューターは短時間で数多くの形態を生み出すことができるけれども、やはり、手を使って生み出すということは作品に魂をこめるような作業であって、作品への愛着が増すのだと感じた。
最近、建築が家具化しているが、藤江さんの作る家具は、家具の建築化といえるだろう。私は、この二つの現象はとても良いことだと思う。ハコの中にあるオモチャのよう自由に出し入れできて、いつでも交換できるという建築と家具の関係から、その場でしか成立しない家具(家具建築)、その空間を利用する人にこそ使ってほしい家具といったような家具と建築の関係に魅力を感じる。
藤江さんは家具を作る際に、建築家の意図を読み取るとおしゃっていた。建築を作る際にも敷地を調査したり、その場に隠れている背景を読み取って設計していく。家具の場合は、その作業がひとつ内側で行われている。
家具が生み出すその場の空気が建築をよりいっそう引き立たせ、また、家具によって人間の普通の生活を生み出しているということを発見できた。
そこにかくれているもの
~藤江和子さんの講演を聞いて~
06d7095 福井健太
藤江さんが講演を始めるや否や発した言葉に「メモを取ることより、自分で、講演についていろいろ考えて欲しい。」という言葉があった。私は、メモはやはり必要なので取っていたが、なるべくその場その場で藤江さんがおっしゃったことについて考えることにした。
今回の講演を聞き終わり私が一番深く感じたことがあった。それは、“くじらシリーズ”、“万華鏡シリーズ”を話し終えたときにおっしゃられた言葉であった。
「コンピュータが、ものづくりをおもしろくなくしている。」
私たちの生活に今や欠かすことのできなくなったコンピュータのことだけあって少し驚いた。とは言っても多くの場で言われていることでもあるだろう。藤江さんがここに込めた言葉の意味を探っていき、ある一つの結論にたどり着いた。
“くじらシリーズ”と“万華鏡シリーズ”の説明を終え、その当時、藤江さんの事務所にはまだコンピュータが導入されていなかったことをあかし、それまで、全て人間の手でものづくりをしていたとおっしゃった。今までは人間の手作業でものづくりをし、たいへんな労力と時間がかかった。しかし、コンピュータの導入により、手作業がなくなり、時間が短縮された。しかし、その代償にコンピュータを使えば誰にでもどこにでもしかも短時間でデザインされてしまう。藤江さんはこのことに対してものづくりの面白みを失い、今ではくじら、万華鏡、両シリーズに対する興味を失ったようだった。私は製図のクラスで、韓先生のクラスであるが、韓先生がふとこんなことをおっしゃっていた。
“顔のないもの”
きっと藤江さんも同じ事を考えたのではないかと私は考えた。人の手で作り上げたものにはその人の思いが詰まっていて、きっと顔のあるものができると思う。コンピュータという便利さの代償に顔を失ってしまったものたちが地球上にいくつあるだろうか。
そのような思いから、藤江さんの作品を見ていくと、モルフェシリーズに入ってから、形が抽象的になってきたのではないかと思った。そして、その家具には人間の次の行動を予感させるものであったり、家具の配置・幅・大きさを考えることにより、人と人とのつながりを考えたりといった、今までよりいっそう身体を通して、物事を見たり、考えたりした物になっていったのではないだろうか。私はそのように考え、藤枝さんという人物と藤江さんの作品を見て、考えてみた。
家具はINTERFACEであり、INFLUENCEである。いきいきと活動する人々のいる風景を生むために。
家具にはこれほどまでの見えないパワーを持っていたのだということに改めて気づくことができたし、何よりも、自分が体験して、そのときの感覚を大切にすることがこれからの課題にも役立つのではないかと思った。
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DATE : 2008年11月10日
レポート W-studio (テクスト:円城寺、ブログ作成:塚田)
写真提供 藤江和子
by a-forum-hosei
| 2009-01-02 02:09
| 2008