2008年 12月 15日
第4回 平田晃久さん |
第4回 平田晃久さん
第4回の建築フォーラムは建築家の平田晃久さんに講演していただきました。
平田さんは、1997年に京都大学大学院工学研究科修了後、伊東豊雄建築設計事務所を経て、2005年に平田晃久建築設計事務所設立し、活躍しています。今回の講演では「空間の自然」をテーマに、自身のたくさんのプロジェクトを説明を交えて講演をしていただきました。
はじめに、平田さん自身がどのようなことを考えて建築を作り上げていくかの説明をしていただきました。
まず、無関係性(SKY)・原理性(SEED)・立体性(PLEATS)
という三つのキーワードをもとに考えているそうで、
森の中の奥行き感で例えると、
SKY →木の下で涼んだりするのは気持ちいいが、
木はその涼んでいる人のためにその形になったのではない。
SEED →内発的な原理で外とつながる。
PLEATS →空間的地形でつながる。
このような何らかの形で、今まであったかもしれないものを明確化していくことで、従来の建築を飛び越えていくことはできないかと言うことを考えて設計を進めていくそうです。
桝屋本店
珊瑚礁の中の見え隠れする「見通せない」空間を建築化しました。
House S
屋根がどんどん分岐して空間が創りだされます。
Chair csh
ヒダをコンセプトにつくられた椅子です。
Gallery S
同じく、ヒダをコンセプトに空間を創りだしギャラリー空間にした
ビルディングです。
このような、たくさんのプロジェクトを通して、新しい空間をつくろうとしていること、コンセプトがぶれていないことが平田さんの建築の空間を強くしているのだと感じました。
平田さんが今後どのような新しい空間を作り上げていかれるのかがとても楽しみです。
以下、学生のレポートです。
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06d7024 大石 涼介
奥の無い建築 ~平田晃久さんの講演を聞いて~
奥行きと聞くと、私は何故か無限性をイメージする。今回の平田さんの講演はまさにその無限性を示してくれた。奥行きを辞書で調べてみると『表から奥までの距離』と書いてある。しかし、平田さんが紹介された建築を拝見してみると「奥」の定義が難しい。
例えば 枡屋本店(Showroom-H) では、お客さんにパッと商品全部を見せると売れなくなるという話を聞いて、平田さんは一度に全体を見渡せない状態で移動させることを考えた。四角形を斜めに割った三角形の壁で、先が見えるそうで見えない不思議な空間をつくり出すことによって歩くたびに全く違う光景を見せると同時に様々な気配を感じさせてくれるジャングルのようになっている。不思議なことに、この建築には奥が感じられない。壁が半分切り取られていることによって周囲の様子や景色と一体感があるように感じられる一方、半分閉じられていることによって、今自分がいる位置とは違う世界にも感じられる。このような世界を醸し出す三角形の壁に囲まれ、どこまでも空間が広がっているように感じられる。この原理はHouse-Hや安中環境アートフォーラムでも活かされている。
独自の世界が広がっていながらも、周りと何かを共有している。その連なりによって奥という定義を作らせない。このような空間は、森や、入り組んだ地表のような自然に多く見られたものだ。そこで人間も含む動物は、身を守りながらも周りの様子を認知していた。だが、機能主義や、ユニバーサルスペースなどを始めとした建築概念によって空間が閉じられ、その自然性は失われてしまった。そのなかでShowroom-Hや、House-Hに現れているものは空間的地形であり、そこには無意識ではあるが人間の本質的なものが含まれている。
また、奥のない建築には立体性も感じられる。それは先ほど述べたような、繋がっているのに見えない空間も当てはまるが、pleat(ひだ)によっても生じてくる。一見、ランダムに広がっているように感じられるpleatも、木の枝が光合成のために表面積をとり球状に広がるように原理性を持っている。pleatは、人や建築に必要なものを満たす、あるいは発見するための可能性を秘めている。例えば広がっていくことによってパブリックやプライバシーのどちらにも偏ることなく空間を作り出したりして、沢山の関係性を見出す。また平田さんが考案した椅子にも、身体に触れる部分と構造の部分でpleatの曲率を考慮し原理性をたくみに活かしてデザインされている。
軽井沢の別荘として考案されたHouse-Eでは、屋根がそのまま住宅となっている。水を流すという点においては山脈も屋根も原理が同じだということから、自然界の普遍性を見事に取り入れている。人は空を見て安心感を得るが、空は人の活動とは全く関係なく存在し別の生成原理をもっている。平田さんはこれを設計のプロセスでは「無関係性」と考え。その「無関係性」を建築に取り入れることによって揺るぎ無い価値を生み出している。
私は奥があると建築だけにかかわらず様々なことに制約が出てくると思う。言うまでもないが、自然界には奥は無い。しかし人間によって「奥」は作られてしまった。平田さんはこのような奥を取り除いてくれる建築を創造している。
06D7068 高瀬 大侍
自然界のバランスをもつ建築 -「空間の自然」を聞いて-
雑誌などで平田さんの作品を目にするときに感じていたのは、カタチの面白さばかりであった。有機的、または複雑な幾何学の建築。見た目だけだと思っていたので、今まで興味はそこでストップしていた。しかし今回の講演で、平田さんの作品の内部を体験してみたい!と強く感じた。カタチはもとよりそこで起こる行為や現象が平田さんの建築の魅力なのだと気づいた。何が起こるか予想し得ない、体感する建築なのだと感じた。
そのような印象を受けたのは、やはり自然と建築の間の「曖昧な部分」からその普遍性を探そうとしているからなのだと思う。講演の冒頭で見せていただいた絵画では、人工物である建築が自然と対立しているようでもあり、溶け合っているようでもある、まさに矛盾や曖昧さが現れていると感じた。人が手を加えていない自然でのハッとする体験も多いが、その自然と人工物の「曖昧な部分」から発生するハプニングはその体験とも違う、まったく予想できないまさにそこでしか経験できないものだと感じる。東京のように合理的な部分ばかり重視する、人間が理性で作り出した建物に囲まれている私たちにとってその「曖昧な部分」での経験は、鈍っていた部分を刺激されるような、本能的な興味が湧き上がる空間なのだと思う。
またさらに面白いと感じたのは、そのようにして起こった人間の行為が絶妙に配置された空間とそのつながり方によって別の空間の人間にも影響を与えることだ。キャベツの葉の隙間の空間のように繋がっているが見えないSpace同士で、別々の行為が影響しあい意識してないとしてもそこには関係性が生まれる。その人間同士の無意識のつながりこそがまたその空間を豊かにしていくのではないか。その相乗効果が建築をさらに魅力的にしていると感じた。
自然界の驚くべきところは、その「バランス」であると思う。循環であったり、連鎖であったりを繰り返しながら絶妙な均衡を保つ「バランス」の良さである。そのバランスが失われた場所は、砂漠となったり生物が暮らせなくなったりと場所としての生気が失われる。逆にバランスの保たれた場所は緑豊かで生物の生き生きとした活力がみなぎる場所である。平田さんは「無関係性」「原理性」「立体性」という言語を用いて自然の秩序からそのエキスをくみ取り、この自然界のバランス感覚を建築で実現しようとしているのではないかと思う。平田さんの作品は、カタチや構造、空間と空間、別々の人間同士の行為、どれも自然から学び取った「バランス」で持ちつ持たれつ成り立っている。このバランス感覚を建築によって体感できれば、自然をコントロールしようなどという発想も生まれないのだろう。
ひとつ気になったことがある。建築の中に谷を作ったり、森の中のような体験が起こる場所を創ったりされていて楽しそうだと感じたのだが、その建築が建つ前の元々の場所の環境や歴史はどうだったのだろうということだ。谷や森があった場所なのだろうか。もしそのように元々の自然環境に即してカタチを決定しているのであれば、さらに面白いことが起こるのではないかと感じた。その場の環境に沿うことで周囲との関わりが生まれ、先ほど述べた「バランス」がその建築内だけに留まらず、建築と建築同士、町と町同士と作用し持ちつ持たれつの関係が成立するのではないか。広い範囲で豊かな環境を作るヒントもこの「バランス」感覚にあるように思う。
06D7080豊田 彩乃
自然≠建築 自然≒建築 難しいので読み替えた ~空間の自然を聞いて~
平田晃久さんの空間の自然と題した今回の講演では、平田さん自身が自然から数多くのことをピックアップし、そのアイテムを使って様々なプロジェクトを進めていった様子をご紹介いただいた。今回の講演の前半は具体的な話ではなく、考え方や思考手順をお話いただいたのだが、個人的にはその部分のお話が非常に難しく、言葉の面で然り、内容で然りといった具合であった。内容を理解するためにいちいち自分でお話を読み替えていくことにした。いまでも度数とラジアンをいちいち度数に換算するように、意外と受け手にとっては、これが一番吸収しやすいのである。
なかでも、一番読み替えをしたのが平田さんの自然的構造物を三要素に大別した部分のそら、たね、ひだ、のお話である。そのなかで、樹木を例にお話いただき、無関係性が、本来の目的とは違って偶然出来た木陰などで人が休むことということであったので、つまりは偶然の結果といえるであろう。次にひだについてだが、ひだは立体性のことであるが、原理性の結果であるとお話いただいた。すると、私にはたねの原理性がいまいち理解できないのだ。葉や枝の伸ばし方のルールとお話いただいたが、これをうまく建築的解釈することが出来ないのだ。いったんはこの原理性を構造的合理性と近い意味なのかと言い換えたが、どうもそれだけではないようだということまでわかった。構造的合理性と読み替えると、葉や枝が伸びていく配置や理由が説明でき、さらにそれに倣って建築の分野でも、合理的な構造体配置や荷重配分をすることが可能になるだろう。ただ、上で述べたように平田さんの原理性にはただ構造の面だけではない意味が含まれているように感じられた。では一体、建築の原理とは何なのだろうか。
建築の意匠的な部分で何か原理などあるのだろうか。原則なら多く存在しているであろう。利用者の快適性や利便性を考えることなどが原則といえるだろう。ここで注意しておくと原理とは、物事の根本にあってそれを成り立たせる理論・定理のことである。つまり建築意匠に理論的理由が必要なのかということである。平田さんはそういったことに基づいて計画を進めているようであるが、わたしはこういったことは感覚に頼る面がおおいと思っている。仮に形状に理由があるとするなら、それは意匠的な理由ではなくて、構造的な理由である。
意匠的な理論が仮にある場合は、それは発見するものなのか、自分で定義するものなのか、理論・定理というくらいなのだから自分で定義するのは間違っているであろう。では、発見するもの、つまり現段階で発見しえていない未知の要素に期待して、考えていこうとしていることは間違いではないのだろうか。まだ曖昧な建築言語を活用して建築を育てていきますと宣言することは、あまりに無責任なのではないだろうか。ここまで書いてひとつ気がついたのだが、今から発見するであろうものではないのだ。普段から建築の種になりえるであろう言語をストックしておいて、その中から計画を進めていくのに最も適したものを選ぶべきだったのだ。そのための日ごろのスケッチ、講演会の聴講であった。この部分に関しては自己解決であった。
しかし以上より、自然的構造物を三要素の原理的の読み替えは、はたして一体なんであったのだろうか。とりあえず構造的合理性だと思ったままで、良いのだろうか。
質問したら解決できたのだろうか。
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DATE:2008年10月20日
レポート W-studio(テクスト:久保田亘、ブログ作成:鈴木雄介)
写真提供 平田晃久
第4回の建築フォーラムは建築家の平田晃久さんに講演していただきました。
平田さんは、1997年に京都大学大学院工学研究科修了後、伊東豊雄建築設計事務所を経て、2005年に平田晃久建築設計事務所設立し、活躍しています。今回の講演では「空間の自然」をテーマに、自身のたくさんのプロジェクトを説明を交えて講演をしていただきました。
はじめに、平田さん自身がどのようなことを考えて建築を作り上げていくかの説明をしていただきました。
まず、無関係性(SKY)・原理性(SEED)・立体性(PLEATS)
という三つのキーワードをもとに考えているそうで、
森の中の奥行き感で例えると、
SKY →木の下で涼んだりするのは気持ちいいが、
木はその涼んでいる人のためにその形になったのではない。
SEED →内発的な原理で外とつながる。
PLEATS →空間的地形でつながる。
このような何らかの形で、今まであったかもしれないものを明確化していくことで、従来の建築を飛び越えていくことはできないかと言うことを考えて設計を進めていくそうです。
桝屋本店
珊瑚礁の中の見え隠れする「見通せない」空間を建築化しました。
House S
屋根がどんどん分岐して空間が創りだされます。
Chair csh
ヒダをコンセプトにつくられた椅子です。
Gallery S
同じく、ヒダをコンセプトに空間を創りだしギャラリー空間にした
ビルディングです。
このような、たくさんのプロジェクトを通して、新しい空間をつくろうとしていること、コンセプトがぶれていないことが平田さんの建築の空間を強くしているのだと感じました。
平田さんが今後どのような新しい空間を作り上げていかれるのかがとても楽しみです。
以下、学生のレポートです。
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06d7024 大石 涼介
奥の無い建築 ~平田晃久さんの講演を聞いて~
奥行きと聞くと、私は何故か無限性をイメージする。今回の平田さんの講演はまさにその無限性を示してくれた。奥行きを辞書で調べてみると『表から奥までの距離』と書いてある。しかし、平田さんが紹介された建築を拝見してみると「奥」の定義が難しい。
例えば 枡屋本店(Showroom-H) では、お客さんにパッと商品全部を見せると売れなくなるという話を聞いて、平田さんは一度に全体を見渡せない状態で移動させることを考えた。四角形を斜めに割った三角形の壁で、先が見えるそうで見えない不思議な空間をつくり出すことによって歩くたびに全く違う光景を見せると同時に様々な気配を感じさせてくれるジャングルのようになっている。不思議なことに、この建築には奥が感じられない。壁が半分切り取られていることによって周囲の様子や景色と一体感があるように感じられる一方、半分閉じられていることによって、今自分がいる位置とは違う世界にも感じられる。このような世界を醸し出す三角形の壁に囲まれ、どこまでも空間が広がっているように感じられる。この原理はHouse-Hや安中環境アートフォーラムでも活かされている。
独自の世界が広がっていながらも、周りと何かを共有している。その連なりによって奥という定義を作らせない。このような空間は、森や、入り組んだ地表のような自然に多く見られたものだ。そこで人間も含む動物は、身を守りながらも周りの様子を認知していた。だが、機能主義や、ユニバーサルスペースなどを始めとした建築概念によって空間が閉じられ、その自然性は失われてしまった。そのなかでShowroom-Hや、House-Hに現れているものは空間的地形であり、そこには無意識ではあるが人間の本質的なものが含まれている。
また、奥のない建築には立体性も感じられる。それは先ほど述べたような、繋がっているのに見えない空間も当てはまるが、pleat(ひだ)によっても生じてくる。一見、ランダムに広がっているように感じられるpleatも、木の枝が光合成のために表面積をとり球状に広がるように原理性を持っている。pleatは、人や建築に必要なものを満たす、あるいは発見するための可能性を秘めている。例えば広がっていくことによってパブリックやプライバシーのどちらにも偏ることなく空間を作り出したりして、沢山の関係性を見出す。また平田さんが考案した椅子にも、身体に触れる部分と構造の部分でpleatの曲率を考慮し原理性をたくみに活かしてデザインされている。
軽井沢の別荘として考案されたHouse-Eでは、屋根がそのまま住宅となっている。水を流すという点においては山脈も屋根も原理が同じだということから、自然界の普遍性を見事に取り入れている。人は空を見て安心感を得るが、空は人の活動とは全く関係なく存在し別の生成原理をもっている。平田さんはこれを設計のプロセスでは「無関係性」と考え。その「無関係性」を建築に取り入れることによって揺るぎ無い価値を生み出している。
私は奥があると建築だけにかかわらず様々なことに制約が出てくると思う。言うまでもないが、自然界には奥は無い。しかし人間によって「奥」は作られてしまった。平田さんはこのような奥を取り除いてくれる建築を創造している。
06D7068 高瀬 大侍
自然界のバランスをもつ建築 -「空間の自然」を聞いて-
雑誌などで平田さんの作品を目にするときに感じていたのは、カタチの面白さばかりであった。有機的、または複雑な幾何学の建築。見た目だけだと思っていたので、今まで興味はそこでストップしていた。しかし今回の講演で、平田さんの作品の内部を体験してみたい!と強く感じた。カタチはもとよりそこで起こる行為や現象が平田さんの建築の魅力なのだと気づいた。何が起こるか予想し得ない、体感する建築なのだと感じた。
そのような印象を受けたのは、やはり自然と建築の間の「曖昧な部分」からその普遍性を探そうとしているからなのだと思う。講演の冒頭で見せていただいた絵画では、人工物である建築が自然と対立しているようでもあり、溶け合っているようでもある、まさに矛盾や曖昧さが現れていると感じた。人が手を加えていない自然でのハッとする体験も多いが、その自然と人工物の「曖昧な部分」から発生するハプニングはその体験とも違う、まったく予想できないまさにそこでしか経験できないものだと感じる。東京のように合理的な部分ばかり重視する、人間が理性で作り出した建物に囲まれている私たちにとってその「曖昧な部分」での経験は、鈍っていた部分を刺激されるような、本能的な興味が湧き上がる空間なのだと思う。
またさらに面白いと感じたのは、そのようにして起こった人間の行為が絶妙に配置された空間とそのつながり方によって別の空間の人間にも影響を与えることだ。キャベツの葉の隙間の空間のように繋がっているが見えないSpace同士で、別々の行為が影響しあい意識してないとしてもそこには関係性が生まれる。その人間同士の無意識のつながりこそがまたその空間を豊かにしていくのではないか。その相乗効果が建築をさらに魅力的にしていると感じた。
自然界の驚くべきところは、その「バランス」であると思う。循環であったり、連鎖であったりを繰り返しながら絶妙な均衡を保つ「バランス」の良さである。そのバランスが失われた場所は、砂漠となったり生物が暮らせなくなったりと場所としての生気が失われる。逆にバランスの保たれた場所は緑豊かで生物の生き生きとした活力がみなぎる場所である。平田さんは「無関係性」「原理性」「立体性」という言語を用いて自然の秩序からそのエキスをくみ取り、この自然界のバランス感覚を建築で実現しようとしているのではないかと思う。平田さんの作品は、カタチや構造、空間と空間、別々の人間同士の行為、どれも自然から学び取った「バランス」で持ちつ持たれつ成り立っている。このバランス感覚を建築によって体感できれば、自然をコントロールしようなどという発想も生まれないのだろう。
ひとつ気になったことがある。建築の中に谷を作ったり、森の中のような体験が起こる場所を創ったりされていて楽しそうだと感じたのだが、その建築が建つ前の元々の場所の環境や歴史はどうだったのだろうということだ。谷や森があった場所なのだろうか。もしそのように元々の自然環境に即してカタチを決定しているのであれば、さらに面白いことが起こるのではないかと感じた。その場の環境に沿うことで周囲との関わりが生まれ、先ほど述べた「バランス」がその建築内だけに留まらず、建築と建築同士、町と町同士と作用し持ちつ持たれつの関係が成立するのではないか。広い範囲で豊かな環境を作るヒントもこの「バランス」感覚にあるように思う。
06D7080豊田 彩乃
自然≠建築 自然≒建築 難しいので読み替えた ~空間の自然を聞いて~
平田晃久さんの空間の自然と題した今回の講演では、平田さん自身が自然から数多くのことをピックアップし、そのアイテムを使って様々なプロジェクトを進めていった様子をご紹介いただいた。今回の講演の前半は具体的な話ではなく、考え方や思考手順をお話いただいたのだが、個人的にはその部分のお話が非常に難しく、言葉の面で然り、内容で然りといった具合であった。内容を理解するためにいちいち自分でお話を読み替えていくことにした。いまでも度数とラジアンをいちいち度数に換算するように、意外と受け手にとっては、これが一番吸収しやすいのである。
なかでも、一番読み替えをしたのが平田さんの自然的構造物を三要素に大別した部分のそら、たね、ひだ、のお話である。そのなかで、樹木を例にお話いただき、無関係性が、本来の目的とは違って偶然出来た木陰などで人が休むことということであったので、つまりは偶然の結果といえるであろう。次にひだについてだが、ひだは立体性のことであるが、原理性の結果であるとお話いただいた。すると、私にはたねの原理性がいまいち理解できないのだ。葉や枝の伸ばし方のルールとお話いただいたが、これをうまく建築的解釈することが出来ないのだ。いったんはこの原理性を構造的合理性と近い意味なのかと言い換えたが、どうもそれだけではないようだということまでわかった。構造的合理性と読み替えると、葉や枝が伸びていく配置や理由が説明でき、さらにそれに倣って建築の分野でも、合理的な構造体配置や荷重配分をすることが可能になるだろう。ただ、上で述べたように平田さんの原理性にはただ構造の面だけではない意味が含まれているように感じられた。では一体、建築の原理とは何なのだろうか。
建築の意匠的な部分で何か原理などあるのだろうか。原則なら多く存在しているであろう。利用者の快適性や利便性を考えることなどが原則といえるだろう。ここで注意しておくと原理とは、物事の根本にあってそれを成り立たせる理論・定理のことである。つまり建築意匠に理論的理由が必要なのかということである。平田さんはそういったことに基づいて計画を進めているようであるが、わたしはこういったことは感覚に頼る面がおおいと思っている。仮に形状に理由があるとするなら、それは意匠的な理由ではなくて、構造的な理由である。
意匠的な理論が仮にある場合は、それは発見するものなのか、自分で定義するものなのか、理論・定理というくらいなのだから自分で定義するのは間違っているであろう。では、発見するもの、つまり現段階で発見しえていない未知の要素に期待して、考えていこうとしていることは間違いではないのだろうか。まだ曖昧な建築言語を活用して建築を育てていきますと宣言することは、あまりに無責任なのではないだろうか。ここまで書いてひとつ気がついたのだが、今から発見するであろうものではないのだ。普段から建築の種になりえるであろう言語をストックしておいて、その中から計画を進めていくのに最も適したものを選ぶべきだったのだ。そのための日ごろのスケッチ、講演会の聴講であった。この部分に関しては自己解決であった。
しかし以上より、自然的構造物を三要素の原理的の読み替えは、はたして一体なんであったのだろうか。とりあえず構造的合理性だと思ったままで、良いのだろうか。
質問したら解決できたのだろうか。
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DATE:2008年10月20日
レポート W-studio(テクスト:久保田亘、ブログ作成:鈴木雄介)
写真提供 平田晃久
by a-forum-hosei
| 2008-12-15 16:00
| 2008