2008年 11月 19日
第2回 長谷川豪氏 |
タイトル
「住宅のスケールとプロポーション」
独立してまもなく4年になる長谷川さん。
今回の講演では6つのプロジェクトを説明して頂き、どのように考えて作ったかを話して頂きました。
「森のなかの住宅」
緑に囲まれた恵まれた敷地に建つ別荘。
切妻屋根の別荘の中には、切妻天井の部屋がある。
この切妻天井を持つ部屋の構成によって、小屋裏のような空間が生まれ、そこから光が入ったり、自然の風景が見える。
都市住宅ではないため、ある一面に対して閉じるという事はせず、平面図式にとらわれない部屋と外部との関係性はとても魅力的でした。
「さいたまの住宅」
さいたま市で進行中の戸建て住宅。
屋根と身体の関係。
地面と身体の関係。
下の図はそのマトリックス。
生活をする中で人は移動をする。
屋根と身体の距離が近くなって部屋が小屋裏のようになったり、外の地面と同じレベルで住宅内部のソファがあって、外部と内部の関係が近くなったり。
生活する中で空間と身体の関係が変化し、 渡辺先生の言葉で言うと「覚醒」するような構成は非常に魅力的でした。
「桜台の住宅」
周りは均質な住宅地で、立て替えが進んでいる敷地。
家の周りに2.5mから3mの余白を取り、周りの建物がどのように建てられても採光等が確保できるようにしてある。
また、この周りの住宅との「距離」というものが、プラン中央の吹き抜けの空間の中にある。
断面図を見ると分かるが、吹き抜けの空間の距離と隣の家との距離がほぼ同じであり、住宅の中にも外部の距離感が存在する。
一階は個室、二階はリビングで、互いの空間は吹き抜けの中央の空間で繋がっている。
各個室と中央の空間は、机のような関係で接続され、各個室で机に向かっていると家族がそれぞれ自分の部屋に所属しながらも空間を共有している感覚になる。
この住宅は「居場所」が選べ、吹き抜けと個室の接続部分にいれば他者を感じ、個室の外に面する所へいれば一人の場所になる。
一つの住宅の中にいながら数センチの移動で環境が変化する住宅である。
「狛江の住宅」
まちの空地になるような住宅。
住宅という建築を作る事でまちに貢献できるような建築。
建ぺい率の規制によって、建物を敷地いっぱいに建てるには工夫が必要な敷地。
そこで地上から1000以下は建ぺい率に含まれないため、建物の半分は半地下の空間とし、もう片方は地上から700mm上げて建てた住宅である。
500個近いスタディの模型。
これだけ多くのボリュームスタディをして検討する長谷川さんの姿勢は圧巻でした。
平面図、断面図、立面図。
長谷川さんはプライベートとパブリックが混ざった場所を作りたいとおっしゃっていました。
まちと繋がっている事が重要で、それが庭を通して関係が作れるのではないかというもの。
まちを歩いている人が、庭を通して住んでる人の生活が見える。
庭の模型写真。
半地下の空間には、庭の平面の中にトップライトを設けて採光を取っている。
半地下の子供室。
上からのトップライトで採光を確保し、横の窓から通風を確保している。
窓辺と同じ高さのソファが特徴的。
ここでも住んでいる人の身体感覚に訴えかけるような試みが見られる。
「五反田の住宅」
いろんな用途の混ざる敷地。
ごちゃごちゃしている地区の中で、どのように楽しく暮らせるか?
その回答が「隙間」を利用するというアイデア。
画像は敷地周辺の建物だけを黒く塗りつぶしたもの。
敷地いっぱいに建て、決して壁を共有しようとはしない建物群からは、画像からも分かるように何となく街区や通りが見えてくる。
そして建物の間には必ず「隙間」が存在している。
この「隙間」が建物を建てる事で生まれる副産物としてではなく、楽しく住むためのアイデアとして住宅に活かされている。
平面図を見ると、螺旋階段が隣の建物と自邸との「隙間」に飛び出ている。
人は生活をしながら住宅の中を移動するが、この螺旋階段を通る事で生活の中にまちの風景が入り込んでくる。
まちの体験が入ってくるのである。
部屋から部屋の移動という何気ない日常の行為。
しかし、何気ない移動の中にまちの風景が入り込んでくる感覚というのは、まちの中に住んでいるという感覚に近い。
とても面白いアイデアであると関心致しました。
「練馬のアパートメント」
インテリアによる個性ではなく、テラスや外部環境によって部屋に個性を与える集合住宅。
一般的に、集合住宅の外観というのはガラスできれいに仕上げようが、あまり内部の生活に影響してくるわけではないし、見ていて面白いものでもない。
「見ても良い外観」として色々な個性を持ったテラスが外観に影響を与えることができないだろうかというもの。
平面図。
L字形の住戸に対してL字のテラスが巻き付いていたり、住戸の並びに平行して吹き抜けた庭が平行してついていたりと、様々な空間がある。
模型写真。
非常に豊かな構成で、完成が楽しみである。
住人が見えない中で設計する集合住宅において、庭における人々の関係性というのはどのように形成されるのであろうか。
ある人は庭を共有するかもしれないし、またある人は完全に自分だけの領域を確保するかもしれない。
練馬のアパートメントにおける 住戸間のコミュニティが、住人によってどのように作られるか。
大変興味深い。
それぞれ異なる6つのプロジェクトを通して、長谷川豪さんが共通して考えていること。
それは「空間のほんの少し外側」です。
小屋裏やテラス、隙間、庭など、部屋のほんの少し外側を変え、身体感覚に訴えかけてくるような空間構成。
そして、全く新しい事をやるのではなく、今までの建築や文化の中にあるものを生活の中に取り込むという姿勢からも伝わってきました。
以下、学生授業レポートを転載します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「まちの風景をつくる建築」
-「住空間のスケールとプロポーションについて」を聞いて -
06D7068 高瀬 大侍
人は一人で考え行動すると、理屈は通っていたとしてもその考え方・行動が社会的に通用するのかは疑わしいと思う。他人と話し、自分と他人の意見を共有、対立させながら価値観を作り上げ、その上で行動することがまともな社会の中の人となりうるように感じる。長谷川さんの講演を拝聴して、建築にも同じことが言えるのではないかと感じた。つまり四方に壁を立てて、確かに生活はできるがそれだけで簡潔してしまっていて辺りの環境を無視した建築は、他人と交わらない人と同じであり、まちに開き、周りと一体になった建築は、積極的に他人と会話しようとする人と同じであると感じる。
長谷川さんの設計する住宅はもちろん後者であると思うが、それにプラスして、周りの環境と一体になりつつ居住者がそのまち風景の中でそれに応じたものに建築や生活をデザインしていくものであると感じた。つまり他人と対話し、さらに考えることで自分自身も変わっていき成長していく人、のような建築が長谷川さんの住宅の印象だ。
このような建築の面白さや可能性は、まち環境を変えうるところにもあると思う。建築の居住者がまちの風景に溶け込んで生活している以上、まわりからの影響を受けることはもちろん逆にまわりへの働きかけも起こるだろう。長谷川さんの作品では「空間の外側に取りついているもの」つまり庭やホールやテラスがまちと生活をつなぐ重要な部分となっていた。例えばその部分が花で飾られていたら、その風景が広がって隣の家の人や目の前の駐車場の管理人などが自分の所にも飾り始めるかもしれない。五反田の住宅の話のとき、その敷地は様々な用途がグシャっとなった地域であり、そもそも東京とはそういう町であるというお話をされていた。これはネガティブな環境であるとは思うが、もし花の例えのように建築がまわりに良い影響を与え、それがまちに広がったとすれば、グチャっとした地域のなかにも何かひとつの共通性が生まれて、単なるいろいろな建物の集まりとしてではない、住民みんなで作るまちが生まれてくるように思う。特に東京のような混沌としたまちにある秩序を与え得るこのような建築はとても重要だと感じ、まちに馴染みつつ良い働きかけをする建築がもっと増えれば東京のまちももっとローカルな単位でアイデンティティをもっていくのではないかと思う。
そういった働きかけをし得る建築であるので逆に影響もまちに伝染しやすいのも確かで責任もあると思うが、長谷川さんの住宅では悪い影響を発することはないだろう。ちょっとした楽しくできて自然にやりたくなるような仕掛けがたくさんあるからだ。それはその仕掛けが全ての作品に共通して、五感を研ぎ澄ませて、どこをどうデザインすれば自分の生活がより快適になるかを自然に考えたくなってしまうものだからだと感じた。今回の講演で、人の生活だけを考えるのではなく、またまわりの環境にこびるでもない、ちょうどその中間の繊細な部分をうまく利用する考え方と、その一番シンプルで明快な方法を学ぶことができ、大変参考となった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「住宅とからだ」
― 身体が受ける感覚と、それを与えるもの ―
06D7128 輪島 梢子
私が今住む家では、大体の窓にカーテンがかかり、道路に面した出窓にもしっかりとブラインドが吊り下げられています。そしてベランダは南を向き、日中は明るい日差しが直接部屋を照らします。
このような状態は至極一般的で、建築雑誌に掲載されているような住宅を見ても、いずれは実用の色に染まっていくのだろう、ということを今までは何となく思っていました。
しかし、今回の講演で取り上げられた住宅がいかに人の身体にフィットしているか、もはや実用ということを超えて、感覚に訴えているのだということを知ったときに、今まで無意識のうちに作っていた概念が、何の根拠もないように感じられました。
屋根からやわらかく漏れる光や、外部のようでいてそうではない中庭や、北を向いているのにキッチンを不思議に照らす光など、“空間のほんの少し裏側のデザイン”という仕掛けたちが、単に一枚皮ではないデザインとして、居る人、あるいは訪れる人をじわじわと魅了していくのだろうと思います。
6つの作品を見て、説明を聞いていくにしたがって、あらゆる日本家屋が頭に浮かびました。長谷川氏の作る、大体が白をベースとした、すっきりと端正な住宅と、柱と梁が行き交い重厚なたたずまいを感じさせる日本家屋とでは、一見何の共通点もないように思ったのですが、空間から与えられる印象というのが、意外なまでに似ていると感じたのです。
その印象というのは、空間の持つやわらかさ、おおらかさ、というところです。
光をやわらかく通す障子、外部とも内部とも呼べない縁側や土間、すべて開放することのできるふすま、外部とは隔てつつも決して遮断することのない垣根など、その要素といえるべきものが随所に存在し、家をつくり、居心地の良さを生み出しています。
またプライベートという点で、単に隠す、事をせずに外部とのつながりを意識的に、かつ巧妙に取り入れているということでも、両者の共通点は見出せないでしょうか。
長谷川氏はニワという要素を、その形状や位置を建築に積極的に関連付け、プライベートを緩やかに守るものの例として挙げていましたが、一方の日本家屋については縁側がその役割を大きく担っていると思います。親しみのあるご近所さんでしたら、正規の玄関口よりも縁側から「ごめんください」と声をかけ、そのまま縁側に腰をかけて世間話をしたりするシーンがあります。わざわざ家の中に上げずとも、外部と内部を結ぶ中間的な役割のおかげで、心の通ったコミュニケーションが成立しているといえます。
両者ともプライベートを守るものとして、内部をすべて包み隠してしまうような装置を常用すれば、外部からの気安さがなくなるだけではなく、そこでの意識は内部ばかりへと集中することになります。周りとの距離を測ることもできなくなり、長谷川氏が何度か口にした“建物の中に居てもマチを感じる”ということが出来なくなります。
はたして長谷川氏が日本家屋と自らの作品の共通部分を感じているのか、それともまったく異質のものと思っているのか、ということについてはわかりませんが、今まで私が感じていた日本家屋での、無条件に思われる心地よさは、身体感覚に基づいたものであるということや、建築的スケールを身体に感じられることからくる心地よさだということを、思いのほか長谷川氏の講演から理解することが出来ました。
「珍しいものを作るのは簡単だけど、じっくり考えて、今まであるものから新しい一面を見出すことが大事」という長谷川氏の言葉も、先に述べたことに通じるのだと思います。
自分の中で定着している考えを、「なぜだろう?」と改めて考えること。なかなか面倒で勇気のいることだろうと思いますが、これが必要だということを、暗に教えていただきました。これが、ものづくりのエネルギーになるのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長谷川 豪
ハセガワ ゴウ
HASEGAWA GO
1977年 埼玉県生まれ
2002年 東京工業大学大学院修了
2002年~2004年 西沢大良建築設計事務所勤務
2005年 長谷川豪建築設計事務所設立
DATE : 2008年10月6日
レポート W-studio (テクスト:大竹、ブログ作成:小野)
写真提供 長谷川豪 氏
「住宅のスケールとプロポーション」
独立してまもなく4年になる長谷川さん。
今回の講演では6つのプロジェクトを説明して頂き、どのように考えて作ったかを話して頂きました。
「森のなかの住宅」
緑に囲まれた恵まれた敷地に建つ別荘。
切妻屋根の別荘の中には、切妻天井の部屋がある。
この切妻天井を持つ部屋の構成によって、小屋裏のような空間が生まれ、そこから光が入ったり、自然の風景が見える。
都市住宅ではないため、ある一面に対して閉じるという事はせず、平面図式にとらわれない部屋と外部との関係性はとても魅力的でした。
「さいたまの住宅」
さいたま市で進行中の戸建て住宅。
屋根と身体の関係。
地面と身体の関係。
下の図はそのマトリックス。
生活をする中で人は移動をする。
屋根と身体の距離が近くなって部屋が小屋裏のようになったり、外の地面と同じレベルで住宅内部のソファがあって、外部と内部の関係が近くなったり。
生活する中で空間と身体の関係が変化し、 渡辺先生の言葉で言うと「覚醒」するような構成は非常に魅力的でした。
「桜台の住宅」
周りは均質な住宅地で、立て替えが進んでいる敷地。
家の周りに2.5mから3mの余白を取り、周りの建物がどのように建てられても採光等が確保できるようにしてある。
また、この周りの住宅との「距離」というものが、プラン中央の吹き抜けの空間の中にある。
断面図を見ると分かるが、吹き抜けの空間の距離と隣の家との距離がほぼ同じであり、住宅の中にも外部の距離感が存在する。
一階は個室、二階はリビングで、互いの空間は吹き抜けの中央の空間で繋がっている。
各個室と中央の空間は、机のような関係で接続され、各個室で机に向かっていると家族がそれぞれ自分の部屋に所属しながらも空間を共有している感覚になる。
この住宅は「居場所」が選べ、吹き抜けと個室の接続部分にいれば他者を感じ、個室の外に面する所へいれば一人の場所になる。
一つの住宅の中にいながら数センチの移動で環境が変化する住宅である。
「狛江の住宅」
まちの空地になるような住宅。
住宅という建築を作る事でまちに貢献できるような建築。
建ぺい率の規制によって、建物を敷地いっぱいに建てるには工夫が必要な敷地。
そこで地上から1000以下は建ぺい率に含まれないため、建物の半分は半地下の空間とし、もう片方は地上から700mm上げて建てた住宅である。
500個近いスタディの模型。
これだけ多くのボリュームスタディをして検討する長谷川さんの姿勢は圧巻でした。
平面図、断面図、立面図。
長谷川さんはプライベートとパブリックが混ざった場所を作りたいとおっしゃっていました。
まちと繋がっている事が重要で、それが庭を通して関係が作れるのではないかというもの。
まちを歩いている人が、庭を通して住んでる人の生活が見える。
庭の模型写真。
半地下の空間には、庭の平面の中にトップライトを設けて採光を取っている。
半地下の子供室。
上からのトップライトで採光を確保し、横の窓から通風を確保している。
窓辺と同じ高さのソファが特徴的。
ここでも住んでいる人の身体感覚に訴えかけるような試みが見られる。
「五反田の住宅」
いろんな用途の混ざる敷地。
ごちゃごちゃしている地区の中で、どのように楽しく暮らせるか?
その回答が「隙間」を利用するというアイデア。
画像は敷地周辺の建物だけを黒く塗りつぶしたもの。
敷地いっぱいに建て、決して壁を共有しようとはしない建物群からは、画像からも分かるように何となく街区や通りが見えてくる。
そして建物の間には必ず「隙間」が存在している。
この「隙間」が建物を建てる事で生まれる副産物としてではなく、楽しく住むためのアイデアとして住宅に活かされている。
平面図を見ると、螺旋階段が隣の建物と自邸との「隙間」に飛び出ている。
人は生活をしながら住宅の中を移動するが、この螺旋階段を通る事で生活の中にまちの風景が入り込んでくる。
まちの体験が入ってくるのである。
部屋から部屋の移動という何気ない日常の行為。
しかし、何気ない移動の中にまちの風景が入り込んでくる感覚というのは、まちの中に住んでいるという感覚に近い。
とても面白いアイデアであると関心致しました。
「練馬のアパートメント」
インテリアによる個性ではなく、テラスや外部環境によって部屋に個性を与える集合住宅。
一般的に、集合住宅の外観というのはガラスできれいに仕上げようが、あまり内部の生活に影響してくるわけではないし、見ていて面白いものでもない。
「見ても良い外観」として色々な個性を持ったテラスが外観に影響を与えることができないだろうかというもの。
平面図。
L字形の住戸に対してL字のテラスが巻き付いていたり、住戸の並びに平行して吹き抜けた庭が平行してついていたりと、様々な空間がある。
模型写真。
非常に豊かな構成で、完成が楽しみである。
住人が見えない中で設計する集合住宅において、庭における人々の関係性というのはどのように形成されるのであろうか。
ある人は庭を共有するかもしれないし、またある人は完全に自分だけの領域を確保するかもしれない。
練馬のアパートメントにおける 住戸間のコミュニティが、住人によってどのように作られるか。
大変興味深い。
それぞれ異なる6つのプロジェクトを通して、長谷川豪さんが共通して考えていること。
それは「空間のほんの少し外側」です。
小屋裏やテラス、隙間、庭など、部屋のほんの少し外側を変え、身体感覚に訴えかけてくるような空間構成。
そして、全く新しい事をやるのではなく、今までの建築や文化の中にあるものを生活の中に取り込むという姿勢からも伝わってきました。
以下、学生授業レポートを転載します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「まちの風景をつくる建築」
-「住空間のスケールとプロポーションについて」を聞いて -
06D7068 高瀬 大侍
人は一人で考え行動すると、理屈は通っていたとしてもその考え方・行動が社会的に通用するのかは疑わしいと思う。他人と話し、自分と他人の意見を共有、対立させながら価値観を作り上げ、その上で行動することがまともな社会の中の人となりうるように感じる。長谷川さんの講演を拝聴して、建築にも同じことが言えるのではないかと感じた。つまり四方に壁を立てて、確かに生活はできるがそれだけで簡潔してしまっていて辺りの環境を無視した建築は、他人と交わらない人と同じであり、まちに開き、周りと一体になった建築は、積極的に他人と会話しようとする人と同じであると感じる。
長谷川さんの設計する住宅はもちろん後者であると思うが、それにプラスして、周りの環境と一体になりつつ居住者がそのまち風景の中でそれに応じたものに建築や生活をデザインしていくものであると感じた。つまり他人と対話し、さらに考えることで自分自身も変わっていき成長していく人、のような建築が長谷川さんの住宅の印象だ。
このような建築の面白さや可能性は、まち環境を変えうるところにもあると思う。建築の居住者がまちの風景に溶け込んで生活している以上、まわりからの影響を受けることはもちろん逆にまわりへの働きかけも起こるだろう。長谷川さんの作品では「空間の外側に取りついているもの」つまり庭やホールやテラスがまちと生活をつなぐ重要な部分となっていた。例えばその部分が花で飾られていたら、その風景が広がって隣の家の人や目の前の駐車場の管理人などが自分の所にも飾り始めるかもしれない。五反田の住宅の話のとき、その敷地は様々な用途がグシャっとなった地域であり、そもそも東京とはそういう町であるというお話をされていた。これはネガティブな環境であるとは思うが、もし花の例えのように建築がまわりに良い影響を与え、それがまちに広がったとすれば、グチャっとした地域のなかにも何かひとつの共通性が生まれて、単なるいろいろな建物の集まりとしてではない、住民みんなで作るまちが生まれてくるように思う。特に東京のような混沌としたまちにある秩序を与え得るこのような建築はとても重要だと感じ、まちに馴染みつつ良い働きかけをする建築がもっと増えれば東京のまちももっとローカルな単位でアイデンティティをもっていくのではないかと思う。
そういった働きかけをし得る建築であるので逆に影響もまちに伝染しやすいのも確かで責任もあると思うが、長谷川さんの住宅では悪い影響を発することはないだろう。ちょっとした楽しくできて自然にやりたくなるような仕掛けがたくさんあるからだ。それはその仕掛けが全ての作品に共通して、五感を研ぎ澄ませて、どこをどうデザインすれば自分の生活がより快適になるかを自然に考えたくなってしまうものだからだと感じた。今回の講演で、人の生活だけを考えるのではなく、またまわりの環境にこびるでもない、ちょうどその中間の繊細な部分をうまく利用する考え方と、その一番シンプルで明快な方法を学ぶことができ、大変参考となった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「住宅とからだ」
― 身体が受ける感覚と、それを与えるもの ―
06D7128 輪島 梢子
私が今住む家では、大体の窓にカーテンがかかり、道路に面した出窓にもしっかりとブラインドが吊り下げられています。そしてベランダは南を向き、日中は明るい日差しが直接部屋を照らします。
このような状態は至極一般的で、建築雑誌に掲載されているような住宅を見ても、いずれは実用の色に染まっていくのだろう、ということを今までは何となく思っていました。
しかし、今回の講演で取り上げられた住宅がいかに人の身体にフィットしているか、もはや実用ということを超えて、感覚に訴えているのだということを知ったときに、今まで無意識のうちに作っていた概念が、何の根拠もないように感じられました。
屋根からやわらかく漏れる光や、外部のようでいてそうではない中庭や、北を向いているのにキッチンを不思議に照らす光など、“空間のほんの少し裏側のデザイン”という仕掛けたちが、単に一枚皮ではないデザインとして、居る人、あるいは訪れる人をじわじわと魅了していくのだろうと思います。
6つの作品を見て、説明を聞いていくにしたがって、あらゆる日本家屋が頭に浮かびました。長谷川氏の作る、大体が白をベースとした、すっきりと端正な住宅と、柱と梁が行き交い重厚なたたずまいを感じさせる日本家屋とでは、一見何の共通点もないように思ったのですが、空間から与えられる印象というのが、意外なまでに似ていると感じたのです。
その印象というのは、空間の持つやわらかさ、おおらかさ、というところです。
光をやわらかく通す障子、外部とも内部とも呼べない縁側や土間、すべて開放することのできるふすま、外部とは隔てつつも決して遮断することのない垣根など、その要素といえるべきものが随所に存在し、家をつくり、居心地の良さを生み出しています。
またプライベートという点で、単に隠す、事をせずに外部とのつながりを意識的に、かつ巧妙に取り入れているということでも、両者の共通点は見出せないでしょうか。
長谷川氏はニワという要素を、その形状や位置を建築に積極的に関連付け、プライベートを緩やかに守るものの例として挙げていましたが、一方の日本家屋については縁側がその役割を大きく担っていると思います。親しみのあるご近所さんでしたら、正規の玄関口よりも縁側から「ごめんください」と声をかけ、そのまま縁側に腰をかけて世間話をしたりするシーンがあります。わざわざ家の中に上げずとも、外部と内部を結ぶ中間的な役割のおかげで、心の通ったコミュニケーションが成立しているといえます。
両者ともプライベートを守るものとして、内部をすべて包み隠してしまうような装置を常用すれば、外部からの気安さがなくなるだけではなく、そこでの意識は内部ばかりへと集中することになります。周りとの距離を測ることもできなくなり、長谷川氏が何度か口にした“建物の中に居てもマチを感じる”ということが出来なくなります。
はたして長谷川氏が日本家屋と自らの作品の共通部分を感じているのか、それともまったく異質のものと思っているのか、ということについてはわかりませんが、今まで私が感じていた日本家屋での、無条件に思われる心地よさは、身体感覚に基づいたものであるということや、建築的スケールを身体に感じられることからくる心地よさだということを、思いのほか長谷川氏の講演から理解することが出来ました。
「珍しいものを作るのは簡単だけど、じっくり考えて、今まであるものから新しい一面を見出すことが大事」という長谷川氏の言葉も、先に述べたことに通じるのだと思います。
自分の中で定着している考えを、「なぜだろう?」と改めて考えること。なかなか面倒で勇気のいることだろうと思いますが、これが必要だということを、暗に教えていただきました。これが、ものづくりのエネルギーになるのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長谷川 豪
ハセガワ ゴウ
HASEGAWA GO
1977年 埼玉県生まれ
2002年 東京工業大学大学院修了
2002年~2004年 西沢大良建築設計事務所勤務
2005年 長谷川豪建築設計事務所設立
DATE : 2008年10月6日
レポート W-studio (テクスト:大竹、ブログ作成:小野)
写真提供 長谷川豪 氏
by a-forum-hosei
| 2008-11-19 03:31
| 2008